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「紙の匂い」 | 第二小説集『紙の匂い』

紙の匂いworks

紙の匂い 1

 沖津が野地部落の橋本トミに電話したのは二月末の雪の日であった。この家は、野地部落に残った唯一の紙漉き屋で、沖津はここを訪問しようと思ったからである。電話に出たトミの返事は、迷惑そうな感じに聞こえた。
「紙のことを聞きたいというなら、後藤良一さんに聞いてくんなさい。おら、ただ紙を漉いているだけで、なにもわからんもんだすけ」
「いや、後藤さんにも電話したんですが、ことしは紙漉きをやっていないというもんで。御迷惑でしょうが、お願いします」
「はあ……たいしてお役に立てんども、それでもいいのなら……」
 今は、おしを強くしてたのみこむより他はないと思った。沖津は、今無性にこの和紙について知りたいと思った。その衝動は、決して計算されたものではない。深い先の見通しがあってのことでもない。テレビニュースがほんの短い間、野地部落の紙漉きを放映したことからである。野地部落で漉かれる紙は、大国和紙とよばれ、その名前は、古くから、人々に知られていた。沖津は、この大国町に住み、野地部落とは、五キロ余りのところに住んでいた。むろん大国和紙については、沖津は小さいころから知っていた。しかし、それはあまりに近すぎて、沖津の好奇心の中にははいって来なかった。もう、あまりに知られすぎて、沖津がのこのこと出かけてゆく必要もあるまいという、妙な遠慮みたいなものが、沖津の中にあった。しかし、外部の人たちがここにやってきて、いったい何をしていったというのであろう。結局のところ大国和紙は、ひたすら衰微の道をかけおりてゆくほかなかった。大国和紙のほんとうのことは、地元の人でなければわからないのではないか、それを今まで地元の人たちは放置してきた。おくればせながら、沖津は地元のひとりとして、この大国和紙のためにできることをやってみようと思った。
 大国町は、信濃川の支流新見川のほとりに開けた狭い盆地にあった。昭和三十一年に町制をしいたとはいえ、東西に走る低い丘陵山脈の麓に、古くからの集落が点在していた。これといってめぼしい産業もなければ、観光も売り物にできない。典型的な出稼ぎ農村地帯で、人口は一万を少しこえていたが、減少するばかりである。これといったとりえのないごく平凡な農業立町で、この地の人たちは昔からの古い生活を営々として守り通して来た。野地部落は、この大国町の中心からさらに西側山麓に入りこんで、ここだけがポツンと、その山麓にはめこまれたような場所にあった。戸数はかつて八十戸をこえていたのに村はなだれのように人々を放置して、今は五十戸をわずかにこえるだけである。ここには、小学校の分教場をもち、中学生は冬、寄宿舎にとまって、町の中心部の唯一の中学校へ通っていた。
 電話を切ったあと、沖津は自分の乗ってゆく軽乗用車にまずチェーンをまいた。ともすると、車で野地部落にまで乗り込めないかも知れないと思ったからである。新見川を離れると、山ぎわをきり開いた急傾斜の七曲りで道の上には、ブルドーザーの割り残した雪が堆くあって、車は、苦しそうなエンジンの音をたてて何度もとまった。山の上の野地の屋根が見えるところで、沖津の車は、とうとう進めなくなった。そこで車をおりて、ザクザクした雪道を、アノラックのえりをたててのぼり出した。
 橋本家は、野地の入口から、左におれて、家並が尽きるところにあり、すぐ前に山が続いていた。沖津が橋本家のそばに来ると、家の中からドンドンという規則的な響きが耳についた。その音がなんなのか、沖津はわからなかった。玄関に立ってみて、それはトミが、厚い板の上で、紙の原料を砕く音だとわかった。トミは、沖津が二回声をかけてようやく手を動かすのをやめた。
「ここの家じゃ、おとうさんは出稼ぎにいっているんですか」
出されたお茶をすすりながら、沖津は、こう切り出した。
「おらとうちゃんかい、紙漉きじゃとても金にならねえといって、冬なんか家にいたことがねえがの。ことしも和歌山の方で道をつくる仕事をしているんだと」
「御主人がいないと大へんですね。紙漉きはかなりきつい仕事でしょう」
「手間ばっかりかかって、いっこうに金にならねえ。その証拠に、この村でも、みんな紙漉きをやめていったでないかの。おら家だっていつまでつづくかわからんて」
「そんなこといわんでください、ここの家がやめたら、大国紙の名は、もう永久に滅んでしまうんですから。長い伝統をもつこの紙が」
「おめえさんがたのような偉い人は、みんなそういう。そりゃ、学校の先生みていの人なら物好きでやるのもいいでしょう。でも、わしらは金がほしいからやっているんだが。金にならんことには、伝統とか価値とか、そんげのむつかしいことは、おらたちにはわからんて」
「いや、これはどうも。でも、ほかの家がやめても、ここの家で紙漉きを続けている理由はなにかあるんでしょう」
「おらみていの能なしは、機織りのような細かい仕事ができねえから、仕方なしにやっているだけですて。ちょうどばあちゃんも紙漉きをやってくれているんでの。紙漉きも、雪の降る間の短い仕事で、女子供の内職にしちゃ、なにしろ金にはならんで」
「ちょうど忙しい時に、おじゃまして申しわけありませんですねえ。実は、このわたしにも紙漉きを教えてもらえないかと思っているんですよ。今すぐというわけじゃないんですが」
 こう沖津がきり出すと、トミも、一緒にお茶を飲んでいた姑のリタも、冗談と思ったのか、声をたてて笑った。
「そりゃ、やめた方がいいぜ。紙漉きなんてはたで考えているみていなきれいで、やさしい仕事じゃないすけのう。おめえさんが、寒のころ、水の中に手を入れたり、家中紙素だらけになって、紙叩きができるかのう。おらたちからみれば、給料とりほどいい仕事はねえがのう」
 沖津の決意は、橋本家の二人に笑って無視された。しかし、その時の沖津は、この大国和紙の伝統をうけついで、その灯を守ってゆけるとしたら、今の教職を投げうってもいいとさえ思っていた。ただ、それには、まずなによりも、この紙漉きの技術を正確に習得し採算の見通しを十分計算しなければならないと思った。この技術に値するだけの報いを、橋本家の人たちは受けるべきであると思った。このあと、沖津は、楮から和紙が作られるまでの複雑な抄造工程を教えてもらったが、一度きいただけでは、とても理解できるものではなかった。楮は、紙になるまで幾度も人の手を煩わしておきながら、販売ルートも限られており、将来の見通しなどないように思われた。沖津は、橋本家に電話したときのあのはずむような気持ちが、急に沈静してゆくのをおぼえた。大国和紙の前途を思えば、どれも悲観的なことばかりであった。
 話をきって、家の外へ出ると、橋本家の前半分は、急な傾斜で谷におちこんでおり、低い丘陵山脈のうねりが、かなたに一望できた。この野地部落は、丘陵山脈の山ひだの中に抱かれるように存在していた。大国和紙は、この山ひだの村人たちに育てられて、今まで生き続けてきた。それが、新しい時代のおびただしい文化の中に埋没し、今滅びようとしている。戦後の新しい大量生産の機械洋紙の普及と、経済の急速な高度成長が、この山ひだの村を崩壊させようとしている。膨脹してやまない都会では、村からの労働力を必要としていた。山村の集落の崩壊が、大国和紙という伝統の灯を消すことなど、だれが気づいていよう。いったい新しい文化とは何であろう。沖津は、新しい文化のすさまじい嵐の中に立ちむかって、けなげにも大国和紙の灯を必死で守ろうと思った。それなくして、今までの沖津の三十年の生などむなしさが残るばかりである。
 橋本家をあとに、山をぐるりとまわると、坂は急になった。対岸の山の木が網目のように雪の中にかすみ、野地部落は、すっかりその中に包みこまれてしまった。沖津の歩みにつれて、山は少しずつ、低くなって、まもなく新見川のほとりが近いことを示していた。

 
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