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「紙の匂い」 | 第二小説集『紙の匂い』

紙の匂いworks

紙の匂い 3

 沖津が、橋本家を再び訪問したのは、その年の十月末であった。橋本家の楮蒸しは、すでにはじまっていた。土間につくられた手製の土かまどに、大きな鉄釜が据えられ、深い木桶がかぶせられていた。この中に束ねられた楮がはいっているのである。たき口には、皮がむかれて乾ききった去年の楮の木が惜しげなく投げこまれて、鉄の釜をなめつくした赤い炎は、メラメラとたき口の外へ噴き出ていた。煙突をつくらないかまどの煙は、家の中に充満し、ひどく目にしみた。
 楮を入れて、三十分くらいすると、桶と釜の間から、はげしく湯気を噴いて、一時間もすれば、蒸しあがるのである。蒸しあがった楮を釜の中から取り出すと、トミもリタも主人の五郎も、脇に蒸しあがった楮を積みあげて、かたはしから皮をむいてゆく。両手には楮皮の黒い表皮やら、黄色い繊維やらが、べっとりとついてしまう。熱いうちに皮をむきあげないと、むきにくくなるという。「楮蒸しも、私が出稼ぎにも出ないと、こんなに早くなくてもいいんですがねえ。これから雪が降るまでの間に、皮はまだ厚くなるんですよ。結局、この仕事も私の都合にあわせてやっているんですよ」しきりに手を動かしながら、五郎は話し出していた。むかれた楮皮は、小さく束ねて、軒先につるして乾かす。乾燥させたものを包丁と台の間にはさんで引く楮引きという作業もある。これによって、表皮の黒皮をとり、白皮だけにする。これをソーダとともに煮て水で洗い流す。紙素叩きは、このあとの作業となる。一枚の紙を漉きあげるに、その工程のなんという複雑さであろう。橋本家では、こうして十月末から、翌年の四月末まで、機械のように正確に、紙漉きが行なわれているのである。
 三回目に沖津が橋本家を訪問したときは、新しい年があけて、紙漉き場では、ようやくリタの手によって紙漉きがはじまったばかりであった。五郎は、出稼ぎ先から正月に帰ってきたが、今は再び出稼ぎ先にいた。リタは、紙漉き場にこもりきり、トミは、紙にソーダを加えて煮る作業や、それをいくつかのかたまりにして叩解する、紙素叩きを行なっている。漉くまでの材料の準備を下ごしらえとよぶ。日曜日には、寄宿舎にはいって中学校に通っている子供たちも帰ってきて、この仕事の手伝いをさせられる。
 この日、沖津は、トミと向かいあって、紙素叩きをやってみた。紙素叩きは、一連の紙漉き工程の中で、もっとも労力と根気のいる仕事であった。一年前、沖津がはじめて橋本家を訪問したときもこの作業であった。
 床の上に厚い藁の薦が敷かれ、その上に厚さが十五センチもある、がっちりした堅いけやき板を敷いて、この左右に向かい合って人が坐る。そして、この板の上に一椀の紙素をのせて、叩きはじめるのである。たたくときの槌は、長さ六十センチほどの角柱で、手元の握りは丸くなっている。これを二つの手で持ちあげて、二人で交互に紙素を叩き続ける。そのあと、一まわり小さい小槌によって、仕上げを行なう。きれいに叩くと、ソーダで煮て柔らかくなった紙素の繊維は、短かくズタズタに切れてゆく。この単純な作業を、くる日もくる日も朝から晩まで続けてゆくのである。叩いている間に、はねあがったのであろう、紙素の切片が、戸や壁の天井近くまで附着しているのを見ながら、この作業に要する力と根気とを思った。
「雪掘りをしたあとなど疲れているときに、夜この仕事をさせられるのがいやでのう」
トミは、つぶやくようにいった。叩きをいいかげんにしていると、繊維が長くつながったままで、漉くときに、ひどく漉きにくいという。この作業に、わずかの手ぬきもゆるされない。沖津は、トミと向きあって大樋を使っているうちに、汗がにじんできた。青い紙素のかたまりは、何回も何回も、板の上に広げられた。叩いていると沖津の前に扇形をつくって、きれいに大槌の筋目を残した。これをくりかえし集めては、また端から丁寧に叩いてゆくのである。
 仕事が一段落すると、トミは、紙漉き場のリタに声をかけて、お茶にすることにした。一日数回のお茶は、体を休めることの他に、冷たい水の中に手を入れて紙をすいているリタの手を暖める意味もふくまれていた。
 リタの紙漉き場は、玄関わきのわずか一坪ほどの狭い場所であった。板戸をあけると、正面に水を入れた木のフネを据えてあり、この上にマンガとよぶ攪拌の道具をさげておく。マンガは、角棒に直角に長い数本の爪をはめこみ、これをおろして紙素のはいったニレの水を前後にゆすって、かきまわす。水の中に紙素と粘着剤のこし液が平均して浮遊している時、桁とよぶ長方形の木の枠の中に敷いた紙簀で水をすくって、前後にゆする。水は下に落ち、紙簀には、紙料と粘着剤がまぜあわさって残る。これが紙になるのである。紙簀を桁からはずし、板の上にたてかけて水を切る。水の切れた湿紙はアイダ草をはさみながら傍の台の上に一枚ずつ重ねられてゆく。傍で見ていると、いかにも簡単で、単調な作業のくりかえしのようであるが、ここには長い間に培われた熟練した技術と、すぐれた勘とが注意深く働いていた。その日の温度にも粘液のとけぐあいが違っていたし、水中に浮遊する紙素の量も漉き続けてゆくうちに少なくなる。それをいつ補うか、そしてまたどの程度のところで攪拌するか、それらは、長い間の紙漉きによってリタの水の色を見る目の鋭さであり、水に入れる手の感触の確かさであった。一枚一枚同じ厚さに漉かれてあり、一束四百枚の紙の重さが、三百五十匁から六十匁と、はかりにかけられたように一定して完成してゆくのである。リタは、橋本家に嫁ぐ前、十四歳の時から、すでに六十年近くも紙を漉いていた。母親に叱られながら、楮の枝先の屑皮で漉いた塵紙がそれであった。あの時から、毎年正月すぎると凍りつくようなフネの中の水に手を入れて紙漉きを続けてきた。リタからこの紙漉きをとってしまえば、あとに残るものはなにもなかった。寒中の水仕事で、体のしんまで冷え切ってしまっても、リタは、フネの下においた洗面器のお湯の中で手をあたためながら、一日中紙を漉き続けていた。
「私の若いころは、どの家でも紙漉きをやっていて、お茶のあとなど、隣の家の紙漉き場まで出かけていって、漉きぐあいを競争したもんだったどものう。人にまけたくないと思って夢中でやったもんだて。それがはげみにもなっていたんだがの」
リタは、お茶をすすりながら、沖津の前でこんな述懐もしてくれた。どこの家も、あの紙素叩きの音が朝早くから聞こえてきて、競って紙を漉いた時は、今はもう夢のようである。長い伝統とすぐれた技術とを継承しできた大国和紙が、今こうして細々と続いていることを、なんと考えたらよいであろう。沖津は、リタの述懐を聞きながらあの『和紙の旅』の著者の述懐のことを思った。この技術を長く伝えてゆくためには、その販路も考えなければならない。十分採算のあう仕事にしてやらなければならない。そして、もっと若い後継者も捜さなければならない。大国和紙の前途に横たわるさまざまな問題が、沖津の胸に一度に迫ってきて、気の遠くなるような気がした。
 まず、なによりも和紙そのものをもっとよく知らねばならないと思った。全国的に見て大国和紙は、いったい守るに価するだけの紙なのだろうか。いったい大国和紙とは、そもそもなにを意味するのか。沖津には、なによりも、これが最初の仕事に違いないと思った。

 
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