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「紙の匂い」 | 第二小説集『紙の匂い』

紙の匂いworks

紙の匂い 5

 三月にはいった日曜日、橋本家より沖津のところへ電話がかかってきた。大国紙の調査のために、長岡の学校の先生が三人で来ているから、相手になってほしいということだった。橋本家につくと、三人の訪問客たちは、紙漉きのようすをさかんに写真におさめているところだった。トミは、紙素叩きを、リタは紙漉きのところを、盛んにパチパチとシャッターがきられた。リタの紙漉き場は、とても中にはいってうつせなかったから、外の障子窓がはずされて、そこにカメラがすえられた。外のつめたい風が容赦なく、狭い紙漉き場に吹きこんできた。写真をとりおえると、いろいろな質問の相手になり、茶菓のもてなしもする。一冬の間に、こうした訪問客を何度迎えることになろう。トミもリタも、遠くからやってくるこうした訪問客の相手があまり得意でなかった。こんな時、同じ野地部落の後藤良一氏や、近ごろ親しくなった沖津に応援を求める。
 沖津が、橋本家にはいると、そこに後藤良一氏がすわっていた。この時、後藤氏に初めて会うことになった。かつての上越製紙組合理事、大国和紙保存会会長、そして『大国和紙由来記』の著者でもある。紙漉きの方でも、いち早く四枚漉きの大判紙を漉き始め、叩解機ピーターを導入して、屋内乾燥にふみ切った。この業績においても、和紙に対する情熱においでも、この人を語らずして大国和紙を語ることはできない。後藤氏は、この大国和紙の顔ともいうべき人物であった。橋本家もこの後藤氏を介してその製品を販売先に納めている。沖津は、大国和紙に近づこうとした時、まずこの後藤氏に面会を求めたが、和紙をやっていないといって断わられた。この年冬から、後藤良一氏は紙漉きをやめていた。以来沖津にとっては、後藤氏が何となく近より難い人物に思えていた。
「あなたがたは、大国和紙を観光見物のような気持ちできたんではありませんか。紙漉きは、冬の短い間だけで、精魂こめて仕事に熱中しなければならないのです。そんな大切な時間を、あなた方のような人たちの相手でさかれるのは、大へん困るのです」
 後藤氏の話は、紙の説明よりも、まずその訪問客の気持ちを問題にした。学校で、社会科を教えているという三人の先生たちは、ひたすら神妙に、この話をきいているだけであった。後藤氏がこういうなら、沖津もまたその人たちと違わなかった。
「あなたがたが、大国紙を高い値で買ってくれるとか、いい販売先を紹介してくれるとかというなら、私たちも嬉しいのですが、遊び半分に珍しいものを見るような気持ちで来られても、私たちには少しも得にならず、貴重な時間を費して相手になっているだけでも、大きな損失です」
 後藤氏のいうことも一理あった。大国和紙の名が広まるにつれて、遠くからいろいろな訪問客がやってきた。こんなところまでやってくる人を追いかえすわけにもいかず、その相手にはかなりの神経を使った。製作と宣伝とは、橋本家にとって相反しながら、ともに大国和紙の存続には、不可欠なものであった。 「私どもも、学校にいますと、どうしても、こういう知識が必要になるものですから、お気持ちは十分わかるんですが、そのために、こうして無理におじゃましたようなわけです」
訪問客のひとりは恐縮したようにいった。
「私も、今できるだけ正確な大国和紙に関する記録を残したいと心がけているのですが、後藤さんは、いろいろな資料をたくさんお持ちと聞いておりますが、教えていただけませんか」
沖津がこう話しかけると
「たしかに必要です。私はもう何年間もこの大国紙に関する資料を集めてきました。それによれば、天和二年(一六八二)に、この野地部落の戸数が二十戸で、農耕のかたわらに紙を漉いていたという資料もあります。あなたが、その記録作成にたずさわるのは結構ですが、私のいままでの資料を使ってもらうと私の仕事がこまるのです。この仕事は、私にまかせて下さい。私も、これからもっと完全な記録の作成にとりかかるつもりなのですから」
 後藤氏は、沖津がこの大国和紙の記録作成にふみこんでくることを拒否した。
「もちろん、その記録作成は、だれがやってもいいわけですし、後藤さんなんかはもっとも適任でしょう。りっぱな記録が完成される日を期待しています。大国和紙に正確な記録を作ることは、これからの急務だと思いますよ」
 後藤氏のことばに、沖津は、大国和紙への情熱をそがれたような気持ちになったが、丁重なことばでこれに答えた。
 和紙抄造技術改良の動きは、昭和の初めころからこの地にもおこった。工業組合化の動きや、大判化への動きがそれであった。昭和十六年、和紙の抄造が、国の統制を受けることになり、近隣の和紙業者が大同団結して、上越手漉和紙工業共同組合を結成、その事務所は、はじめのころ、この野地部落におかれた。統制と同時に、ソーダが個人では手にはいらなくなり、出荷量に応じて配給されるようになった。後藤氏は、昭和十九年、戦争が激しくなるとともに、新しい地での飛躍を目ざして満蒙開拓団に加わった。紙漉きへの一切の未練を捨てて新しい気持ちで大陸に向かった。同じ野地部落の何人かの仲間といっしょに。しかし、それも日本の敗戦によって夢破れて、昭和二十二年、体一つで帰郷した。なにもかもはじめからやり直しであった。和紙抄造をはじめても、まだ組合の加入が認められず、ソーダの配給がなかった。そこで、後藤氏は、古紙の漉き直しを手がけた。近隣から、古い年貢取立帳などを買いあつめ、これを煮て漉き直した。これには、薬品はいらなかった。しかも、新しく漉いた紙より高く売れた。昭和二十三年、正式に組合員となり、後藤氏の活躍がはじまった。翌年、販売主任となり、週一度事務所に出かけて、製品の検査に携わった。
 こうして、裸一貫、この道にとびこんで、営々と現在の地位を築いてきた後藤氏も、とうとう紙漉きをやめざるを得なくなった。その直接のきっかけは、紙漉きの中心となっていた奥さんの神経痛であった。せっかく、その年ビーターを使って砕いた紙素は、それまで古いやり方を嘲笑し、できた製品を売ってやっていた橋本家に依頼して漉いでもらうはめとなった。
 それとともに、後藤氏の心痛は、長男の紙嫌いであった。あんな手間ひまかかる仕事よりも、手っとり早く土方に出かけて日銭をとった方がずっといいといって、長男は、後藤氏のやっている紙漉きに見むきもしなかった。おまけに、田をつぶして、鯉の養殖池とし、今はやりの錦鯉を飼うのに夢中になっていた。ようやく、大国和紙の名声が全国的に広まっているというこの時、後藤氏は、とうとう紙漉きを断念した。このころ、県の方でも、大国和紙の文化財指定の動きも出ていで、団体が必要だというので、大国和紙保存会を結成した。後藤氏は、紙漉きをやめた和紙保存会長となった。大国和紙の見学者たちは、どうしても紙漉きの実際を見たがったから、保存会長の話だけでは満足しなかった。後藤氏は、見学者をつれて橋本家を訪ねたし、橋本家もやってきた見学者の説明には、後藤氏の応援を求めなければならなかった。
 そのころ、天皇、皇后両陛下が、県の植樹祭に出席されることになり、県は、この土産品に大国和紙を指定した。後藤氏は、前年最後の紙漉きの絹糸をちりばめた大判紙を、橋本家では、きれいに塵とりした小判紙を献上した。県の方から植樹祭へ二枚の招待状がおくられてきた。その一枚は、当然橋本家へ渡されるべきものであった。しかし、それを後藤氏は、奥さんの手にわたし、この日後藤夫妻は、盛装してこの名誉ある式に参列した。それは、長年和紙抄造に携わってきた後藤夫妻に対する当然の栄誉として、後藤氏が受けとったのかも知れない。
「たしかに、私も紙漉きをやめてしまいましたが、こんどは、ここの家のように小判の紙漉きを再開しようと思っているんですよ。この家のような紙なら、道具もたいしていらないし、人手もいらない。幸い楮もまだ残っているんで、もう一度はじめからやり直そうと思っているんです」
後藤氏は、少してれたように笑いながら、そういった。沖津は、そこに後藤氏が遠来の客へ示す一つの見栄のようなうつろな響きを感じとった。しかし、沖津はいった。
「ぜひそうして下さい。この家一軒じゃ、なんとしてもさびしいですよ」

 
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