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「紙の匂い」 | 第二小説集『紙の匂い』

紙の匂いworks

紙の匂い 6

 三月も末になると、毎日暖かな日が続いた。青空の底まで透き通るように晴れあがって、山々の雪は、その溶ける音が谷底まで響くようだった。そんな日ざしの中にぼんやりしていると、陽炎のようにゆらゆらと体まで浮きあがって、青空にたちのぼってゆく気持ちになった。
 こんな日、橋本家は、紙干しに余念がなかった。この一冬の間に漉いた紙を、わずかの間に、一度に干しあげてしまわねばならないので、人の動きが朝からあわただしかった。まだうずたかく雪の残っている庭に、かぎの手になったぶなの大枝を何本もつきさし、そこに太い孟宗竹を横にのせて、荒縄でしばりつける。そこにすきまなく紙干し板を立てかける。紙干し場は屋根から落ちる雪溶けのしずくを避けて、軒下から少し離れたところに、南向きに作られていた。春の陽ざしを一日中たっぷりと吸いこんで、べっとりと板にはりついた薄緑色の湿紙は、たちまちさらさらしたあの独特のクリーム色に干しあがってゆく。強い匂いを発しながら。
 雪の上にしつらえたキョタツ(脚立)とよぶ台の上に、紙干し板をのせると、ここに雪の中から掘り出した、カングレの一枚一枚を張りつけてゆく。あの雪の中でリタの漉いた紙は、一日漉くと厚い表紙を表と裏にはりつけて、雪の中にそっくり埋めておく。これをカングレとよぶのである。紙干し板にはりつけるには、一枚ずつしわにならないように、細心の注意をはらう。はりおわったあと中心から四隅に向かってさらりとはけでこすると細かいしわものびて、板にぴったりと張りつく。一枚の板に表裏あわせて八枚の紙をはってゆく。といっても、まず表四枚ずつを全部の板にはってから裏をはる。表裏八枚ずつ全部はり終えたころ、一番目にはった紙は乾燥して、これをぬい針を使ってはがしにかかる。これらの仕事は、すべてトミの仕事である。手ぬぐいでほおかむりして、すげ笠で日よけしたトミは、はけをもった手をすばやく動かして、紙をはりつけてゆく。キョタツのまわりは、茅で編んだすだれが、三方を囲んでいた。風よけのためである。カングレから取り出した湿紙は、少しの風でもあると、しわが出来て、板にはりつかないので、紙干しには、この風を極端に嫌った。紙をはるには、左手に紙つけ棒をもち、右手に湿紙と湿紙の間の一枚ずつにはさみこんであるアイダ草を持つ。右手を持ちあげるとともに、左手の紙つけ棒を少しまわすようにして持ちあげると、一枚ずつの湿紙がはがれてゆく。紙つけ棒についた湿紙は、紙の旗をもった形をなし、左の端より板の上に置いてゆく。たったこれだけのことにすぎないが、慣れないと、アイダ草だけ、するするとぬけて、湿紙がついてこなかったり、板の上に、二つに折れて紙と紙がはりついたまま置かれてしまったり、切れてしまったり、なかなかうまくいかない。沖津は、自分でこの仕事をやらせてもらいながら、思いがけないところに、長年の技術の生きていることを知った。紙は、一時間もしないうちに、強い陽ざしをうけて、表面は手で触れるとすべるようになる。これが乾燥したのである。この乾いた紙をはいで、キョタツのところまで運んでくる仕事が、紙干し手伝いの役目である。板をキョタツの上にのせて、新しくはった板をトミから受け取って、あいた場所に運んで立てかける。この手伝いには、たいした力もいらなかったが、ザクザクととけた雪の上を往復し、一日中春先の強い陽ざしを浴びるので、すっかり陽やけし、汗もかく。板からはいだ紙は四本の足のついた紙箱の中に重ねてゆく。
 この単純な作業のくり返しで、一日があわただしく終った。抄造作業は、紙干しだけではない。紙素叩きにしろ、紙漉きにしろ、すべて単純な機械的作業のくり返しである。楮の一皮一皮、紙の一枚一枚、手先のかすかな動きをくりかえしながら、完成した紙ができあがってゆく。これだけを見たら、複雑な機構を備えた自動車が、ベルトの上を流れながら、次々と組みたてられてゆく、あの現代の流れ作業システムに似ているであろう。ただこの作業は、あの近代的な大工場と違って、雪の中の薄暗い部屋の中で、わずか二人の手で仕上げられているのである。そして、決定的に違うのは、単純に見える手作業のくり返しの中に、長い間鍛えられた技術と繊細な手先の勘が見事に働いているということである。
 それだけではない、加えて、自然の条件が紙干しには大きく影響した。日中の陽ざしの強いとき干した紙は、午後陽が弱くなってからの紙と比べるとまるで別の紙のように白かったし、雪の上で干した紙は、土の上で干した紙よりもまた白かった。全く同じ材料を使い、同じ方法で漉いた紙も、このわずかな自然条件の違いが、製品としての紙に大きく影響してくる。
 いくら晴天の日でも、午後になると、この橋本家の前庭には、きまったようにかすかな風が生まれてきた。トミは、それをすばやく感知すると、キョタツを捨てて、紙干し板を玄関の中に持ちこんで、同じ作業をくりかえす。空箱をつんで、この上に板を並べて、はりつけてゆくのである。風で隅のはがれた紙が、たてかけた紙干し板の上でハタハタと鳴りたてる。
 板にはるのも、午後三時をすぎるとやめなければならなかった。日が大きく西に傾き、山際の杉林の上にかかろうとするからである。あとは、はりつけた紙の干し上がるのを待つだけとなる。一日中、太陽の動きを追って仕事をしていると、体中に、春の陽ざしが詰まってしまうような感じである。しみじみと自然の与えてくれる豊かな恵みをありがたいとトミは思う。さんさんとあふれるように降り注ぐ春の陽ざしと、今はすっかり黒ずんでみるかげもないが、前庭にうずたかく残る雪がこの一枚一枚の紙を作っているのだと思う。
 今晩は、また早めに二人だけの夕飯をすませて、干しあがった紙の整理の仕事がある。二人して、不良紙を別にして、干しあがった紙を四百枚ずつ楮の皮でたばねてゆくのである。それは、床の間に積みあげて、いつでも売れるのである。

 
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