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「紙の匂い」 | 第二小説集『紙の匂い』

紙の匂いworks

紙の匂い 8

「大国和紙のことは、私もきいて知っています。なんでも、昔のままの珍しい漉き方をずっと守り通しているそうですね」
 製紙工業試験場長のO氏の話は熱がはいっていた。沖津はK君と一緒にはるばるやってきたこの試験場の一室の椅子に緊張しながら坐っていた。
「珍しい漉き方といいますと?」
「なんでも漉き上げた紙をそっくり雪の中に埋めるのだそうですね」
「ああ、カングレのことですね。あのやり方が、そんなに珍しい方法なんでしょうか」
沖津は、びっくりしたようにききかえした。
「そりゃかわっていますよ。たしかに雪国で漉かれる紙は、雪をうまく利用していますよ。でも、それは、楮の皮を雪の上に晒すというような形でした。漉き上げた紙を、そっくり雪の中に埋めるというのは、奇抜な発想でしょう」
「ああいうやり方は、他ではあまりやっていないのでしょうか」
「今まできいたことがありませんね。全国でも大国和紙だけでしょう。それだけに貴重な技術ですよ」
「そうですか、そんなことは、はじめて聞きました」
 沖津は、O氏の話を聞いて、興奮のために体中があつくなるような気がした。漉き上げた紙に、板をかぶせて、前庭の雪の中に埋めることは、橋本家にとっては、ごく自然に当然のこととして行なわれていた。それは、一つには、雪の中に紙を晒すことであり、その圧力を利用して、粘液を洗い流すことでもあった。しかも、雪は恰好な保存庫をかねているのである。カングレは、常に全体が、すっぽりと雪の中に埋まっている必要があった。その一部分でも、雪の上に出てしまうと、そこにしみがついてしまうので、雪どけのころになると、毎日のように、ここに雪を盛らなければならなかった。
 そもそも、和紙の抄造にとって、雪はいったいどのような役割をはたしているのであろう。全国に点在する和紙産地が、必ずしも積雪地でないことを考えれば、雪は和紙抄造に不可欠な条件ではなかった。大国和紙は、雪の上で乾燥させることによって、雪のもつ漂白作用を利用しているが、乾燥も、土の上に紙干し板をならべているところもあり、それどころか屋内乾燥をしているところが多い。ただ、雪の上の天日乾燥は、屋内乾燥よりもずっと美しく白く干しあがった。それは、障子戸に張られた紙でさえも家の中の戸はすすけて黒くなるのに、外に面した戸の紙は年々白くなってゆくことでもわかった。一時、この紙を白く仕上げようとして、大量のサラシ粉の導入が試みられた時期があったが、漉きにくくなることはもとより、紙の質を極端に弱める結果となった。雪の上での天日乾燥が、この地の理想的な方法であった。
 和紙の貯蔵にしろ、漂白にしろ、雪を巧みに利用しようとすることは、紙漉きが、雪国に普及してから後、雪国の紙漉きたちの考え出したくふうであろう。しかも、大国和紙のカングレの方法は、魚沼の豪雪地帯でもなければ、不可能な方法である。楮の皮を、雪の上に晒すという方法ならそんなに多くの雪を必要としない。ところが、一冬中漉き上げた湿紙をすっぽりと雪の中に埋めるためには、少雪地帯では不可能である。こうしてみるとカングレの方法は、積雪量が年平均三メートルをこす大国周辺で考え出されたに違いない。それを調べることが、明らかにされない大国和紙の伝播経路を知るカギになるのかも知れない。カングレこそ大国和紙の存在を意義づける最大のものだった。このことに、沖津は、今まで感動も疑問も抱いたことはなかった。雪国の和紙抄造には、どこでもやっていることだろうと思っていたからである。この方法が、全国的に見ても珍しいときいて驚いたのである。これを教えてもらっただけでも、この小川町を訪問した価値は十分あったと思った。
 そのあと、試験場の中を案内してもらった。ここは、紙に関して、あらゆる物理的テストが出来るさまざまな機械がそろっていた。紙は、伸びはもちろん、強さ、色沢、印刷の適不適、通気性といった、あらゆる面での物理的な試験が試みられる。それだけでなく、紙の顕微鏡写真をとることによって、繊維の形や長さなども知ることができる。一つ一つの説明を聞きのがすまいとしながら、沖津は、あの橋本家のせまい紙漉き場や、紙素叩きのようすなどを思い浮かべていた。あの橋本家に伝えられた長い伝統と技術は、ここで科学的な実証を行なおうというのである。
「こんど僕の漉いた紙も、ここでテストしてもらっていいですか」
K君がうわずったような声で聞いた。
「ええ、いいですよ、外部からの依頼があれば、いつでも応じる態勢ができているのです。紙について、これだけの設備を整えているところは、全国的に見てもここだけです」
係の人は、こういったあと、さらに叩解機や漂白施設なども案内してくれた。
 埼玉県小川町は、近くに東京という大消費地をひかえ、早くから大量に漉かれていた。ここに、昭和十二年、現在の製紙工業試験場の前身、小川和紙研究所ができたのも、そのためであった。小川町は、東日本の和紙業者のメッカとして、業界の指導的な役割をしめていた。製紙工業試験場は、その中心的な存在であった。
 それだけに、一軒毎の製紙業者の規模も大きかった。小川和紙保存会長M氏宅では、二人の使用人と家族とで、年間千二百万円の売り上げであるという。一冬六十万円の売り上げしかない橋本家とは、まるで比較にならない。しかし、ここの和紙抄造にも、さまざまな問題が次々とおこっていた。M氏も、こんなことを話していた。
「このごろの機械和紙の発達は、目を見はるものがあり、手漉和紙の独自性が失われてしまったことでしょうね。こちらも、機械化して大量生産にのり出そうとすれば、施設に金がかかってしまう。これからの和紙は、漉いた人の名前で買うようになるでしょう。たとえば、福井の岩野さんのように、この人でなければ漉けないといった、一つの工芸品としての和紙を買うようになるでしょう。小川の和紙は、大量生産にも徹せられず、工芸品としても認められず、ちょうど、その中間的な存在にあるため、これからどう生きのびるのかむずかしいのです。今までは、東京という大消費地に近いことに甘んじて、なんとかやって来れましたが」
 この話の中に出てくる岩野さんとは、小出紙のT氏の話に出てきた岩野市兵衛氏のことをいっていることは、沖津もすぐわかった。岩野氏の漉く紙が、版画家の棟方志功の愛用するところとなって、名声をひろめたことなどもすでに知っていた。
 M氏宅の庭いっぱいに広げられた紙干し板には、漉きあげたばかりの紙が冬の陽ざしを浴びていた。今ころ、あの橋本家では、雪にとじこめられながら、家の中での紙漉きが続いているであろう。ピチャピチャと冷たい水音を響かせながら、狭い紙漉き場ではリタの紙漉きが続いているであろう。その隣の部屋では、トミの紙叩きの音が、トントンと続いているに違いない。前の日も同じだった。明日もまた同じであろう。連日雪に降りこめられるのと同じように、橋本家の紙漉きも一冬中同じことのくり返しである。そして、漉き上げられた紙は、春先のあたたかな日がもどってくるまで、雪の中で眠り続けるのだ。同じ紙を漉くのに、小川の地と、あの大国の地のなんという大きな違いであろう。紙漉きは長い間に、それぞれの地の気候を超越して、すっかり定着していったのだ。
 その後沖津はK君と、小川和紙の共同販売所を訪れた。和紙を加工した封筒、便せん、色紙、屑入れ、名刺、カレンダーといった品物が展示即売されていた。和紙は、すでに民芸品として、華麗な変身を遂げていた。その動きの鈍重さと保守主義とによって、大国和紙は、百年一日の如く、障子紙や凧紙の用途以外から一歩も踏み出そうとしなかった。橋本家がそうであった。野地の紙漉き農家が、昭和初期の養蚕ブームに乗り換え、内職としての機織り、錦鯉の養殖、あるいは葉たばこ栽培と、よりよい現金収入を求めて、次々と新しい仕事にとびついていったのに、橋本家だけは、その反応の鈍さから、昔のままの紙漉きからぬけ出せないでいた。その紙漉きが、全国にも珍しい抄紙技術を残して、注目されるというのは、なんという歴史の皮肉であろうか。
 その日、二人は、小川町に宿をとり、翌日町はずれに住む伊原氏を訪問した。伊原氏はもと製紙工業試験場長をつとめ、今は、国の文化財保護審議会委員として、和紙研究の権威者として知られていた。小川にいったら、ぜひ会って来たらよいと小出和紙のT氏が勧めていたからである。
 氏は、奥さんと二人で住んで、新しく出る紙の本の原稿書きに追われでいた。和紙の本場、高知の伊与に生まれ、神戸高専を出たあと、叔父の経営する製紙工場を手伝って、実際に紙を漉いたこともあるという。島根、岐阜、そして小川と日本の代表的な和紙試験場を歩いて、この地に居を定めることになった。
「今の役人で、私のように紙を漉ける人はどこにもいませんよ。それが私の強みなんですよ。文化財保護審議会の専門委員になって、はじめての仕事が、優秀な紙漉き技術の保存者を人間国宝に指定することだったのです。これを急がないと、和紙の技術は、これから滅びるばかりですからね。そして、岩野さんと安部さんが、その第一号になって、ようやく和紙技術も人間文化財として日の目を見たといえるでしょうね」
 伊原氏は、こう話したあと、話は、大国和紙に触れていった。
「大国和紙のことは、よく知っています。この間の審議会の時も、古風な技術をよく伝えているので、その技術保存を主張しました。大国和紙をふくめて、全国で四つの紙漉き技術の保存を、常々主張しているのです」
「実は、私ども、大国に住んでいながら、恥ずかしいことに、その大国和紙のよさについて、よく知らないのですが、これからいったい、どうしたらよいのでしょうか」
「なにより、その古い抄紙技術をへんに改めないことでしょう。それだけでは、収入が少なくてやっていけないとしたら、それとは別に大判の改良紙を漉いて、二種類の紙を同時に漉いてゆくのはどうでしょう。その間に、できるだけ正確に抄紙過程を記録に残すことです。それとともに、早く後継者を養成する必要がありますね。今紙漉きをやっているというのは、おばあさんだけだということでしょう。そのおばあさんが漉けなくなったら、どうするのですか」
「はあ、よくわかりました。家に帰ったら、さっそくこの二つのことに力を入れてみたいと思います」
そういって、沖津は、ふと野地の後藤氏のことを思った。後藤氏が、どれほど正確な記録を残してくれるかということに少し疑問も持った。しかし、それは、こんなところでいうべきことではないと思った。
 沖津が差し出した大国和紙を見て、伊原氏は大きな驚きの表情を示した。
「これはおどろきました。この紙はすばらしい。どこか岩野さんの紙に似ているところがありますね。こんなのを、大国では漉けるのですね。これはりっぱな商品として、どこにも通用しますよ」
 伊原氏は、紙の手ざわりをたしかめながらそういった。沖津は、無言のまま、伊原氏の次のことばを待った。伊原氏も、その後しばらくは無言のまま、大国和紙を眺めていた。沖津は、この大国和紙とかかわってきたことの意味を考えつづけた。沖津が、大国和紙とかかわってきたのは、全くの偶然であった。沖津が、大国町に住み、近くに紙漉きの家があったに過ぎない。その紙漉きが、どんな紙であろうとも、沖津は確実に近づいていったであろう。それは偶然近くにいた一組の男女が愛し合い、お互い最高の人と信じあって生涯連れ添うのに似ていた。沖津にとっては大国和紙とは、もはや忘れ難い存在であった。その大国和紙を、この伊原氏が賞賛するのを聞いて、沖津は、この紙に感謝しなければならないと思った。伊原氏に会えたことで、沖津の心に大きな灯が明々と燃え盛った。はるばる、この地にやってきてよかったと思った。
 沖津たちは、そのあと、伊原氏に案内されて、近くの小学校に陳列されている紙漉き道具コレクションを見学した。一つの教室いっぱいに、紙叩き棒や、桁、紙簀、桶、刷毛など、紙漉きに使ったあらゆる道具が陳列されていた。かつてこの学校にいたひとりの熱心な教師が中心となって集めたという。これらの道具は、紙漉きの廃業とともに、急速に失われてゆく運命にある。大国和紙の紙漉き道具も放っておいたらたちまち捨てられたり、燃されたりするに違いない。紙漉きをやめたあとのこうした道具ほどじゃまになるものはない。全く無用の長物として、外へ放り出されて、雨ざらしになっている漉きフネや、鉄釜を見たことがある。野地部落でも、沖津は、こんな話を聞いた。
「紙漉き道具の中で、他に役立つのは、紙干し板くらいなもんだのう。紙を干す時には、この紙板を傷つけないようにていねいに扱ったり、時々紙垢をソーダで洗いおとしたり、何年かすると、大工さんから削り直してもらう。板は、小さな削りむらもゆるされない、平らにていねいに削らないといけないので、大工さんは紙干し板を削るのをいやがってのう。そんな大切な板も、雪がこいに使ったり、耕運機の荷台にしたりで、五十枚もある紙干し板は、たちまちなくなってしもてのう」
 紙干し板の表面の凹凸は、そのまま干しあがった紙に影響する。穴をつくったり、薄いところを作ったりして、不良紙をつくるもとになる。その紙干し板が、その表面の配慮などおかまいなしに、鋸で引かれたり、五寸釘をうちこまれたりする姿を思って、沖津はあわれになった。外へ放り出された道具もみじめであるが、このように転用された道具はいっそうみじめであった。
「大国和紙民芸館」、野地部落の離村した茅葺民家を一軒借り切って、こんな看板を掲げてみたらどうであろう。そこには、大国和紙の紙漉き道具一式を陳列したり、紙漉きの大きなパネルを飾ったり、その一室で、紙漉きの実演も行なう。野地部落まで出かけてきて大国和紙の見学にやってきた人たちは、その和紙民芸館を見学して、喜んで帰ってゆくであろう。そうすれば、あの橋本家も、やってくる見学者の応対に追われることもなく、紙漉きに集中できるであろう。そして、その民芸館の館長は、まぎれもなく後藤良一氏のほか考えられない。その民芸館をもって、紙漉き民具の保存と、宣伝とあわせて技術の伝承ができるならば、沖津の夢は、すべで実現することになる。その日の夜、宿に帰ってから沖津は、そのことを考えると、いつまでも眠れなかった。夢は夢をよんで広がったまま沖津は、その夢想の世界に遊んでいた。
 旅の最終日、沖津はK君と別れ、ひとり東京王子駅前にある「紙の博物館」を訪ねた。王子製紙会社が、戦後三社にわかれた後に設立された博物館で、王子製紙の建物の一部が利用されていた。ここは、明治以降の洋紙に関する資料もあったが、和紙に関する資料も豊富であった。入り口には、パピルスの鉢植えがおかれ、広い館内には、沖津の他はだれもいなかった。沖津はひとり、陳列ケースのガラスに顔をくっつけるようにして、手の中にかくれてしまいそうな豆本や、和紙で作ったおもちゃ、紙で作った衣服、あるいは古い木版印刷の版木を見たりした。
 二年前の沖津が、全くといつてよいほど知らなかったこの未知の世界、今の彼は、大国和紙を窓口として、もはや身動きできないほどにこの和紙の世界にどっぷりとつかりこんでしまった。むろん、この底知れぬ深淵は、彼の前に、その姿をほんの少しばかり見せたに過ぎなかったのだが、その世界の広がりと深さだけは十分知ることができた。ヨーロッパの人たちが、全く紙を知らぬ時代、千三百年もの昔に、中国からはいってきたといわれる抄紙技術は、長い年月、この国土の中でじっくりと発酵して、その馥郁たる芳香を、津々浦々まで届け続けた。しかし、それが日本全土に及ぼうとするころ、大量生産という洋紙技術のあおりをもろに受けて、わずか百年の間に、和紙の灯は急速に消えていった。その中にあって、大国和紙は、かすかなぬくもりを伴って、小さな灯を手から手へと伝えてきた。沖津は、その灯を、二つの掌で覆って、外の嵐を防いでやりたいと思った。
 一通り陳列品を見たあと、紙に関する文献を集めた図書室にはいった。この中で、沖津はもっぱら大国和紙に関する文献をあさった。『紙漉村旅日記』の著者は、とうとうこの大国町を訪れなかった。昭和十三年四月、柏崎の滞在が旅行の終り近くでもあり、話をきいた人が大国和紙を持って宿を訪ねた時、静子夫人がしきりに眠気を訴えていたという。「その紙は、柏崎の紙屋にも売っていて、湯之谷紙とは比較にならぬ立派さである。気が弛んだが、中村氏と対談中、静子は眠くて眠くて困っていた」とその部分は簡単にしか触れていなかった。
そのあと、「越後の大国紙」という次のような文献を、沖津は心躍らせてノートしていった。

 大国紙の名と物を初見したのは、紙漉村旅日記の著者によってであった。ことし由縁あって、私は、自分の小歌集に和紙の精良なものを使いたいと思って、これを寿岳さんに相談したところ、偶々新潟の西窪商店から、大国紙の見本が来ているからと云って、これがそれですと提示された。検すると強靱な楮紙で、往年の第一歌集たる重山集の用紙にみおとりしない優良紙であった。信州戸隠の月明紙のそれに比して私の心をひいたのであった。それは五月の好季節のことで、側にをられた静子夫人も言葉をそえて私に向ってその紙を讃美された。  (中略)
 今夏、新潟の西窪顕水氏の商店からとりよせた大国紙は、上記の記録と大体同じく強靱にして重厚、品質の精良は申すほどもないが、寸法は丈九寸三分、幅六寸五分、而して端を切らず、ただ越後の雪や美人の如く白くはないのを憾むが、私たち老人には、その方が無難で暖かみがあって結構だ。
               (「和紙研究」第十四号 新村出氏文)

 大国和紙の文献で、もっとも長く、これほど賞賛している文に接したことはなかった。おわってから沖津は、だれもいない図書室の窓ガラスをぼんやりとながめていた。こんなところで、大国和紙のこんな一文に会うとは思わなかった。見知らぬ土地で旧知にあったような嬉しさであった。『紙漉村旅日記』の著者は、後年、次のことばを人に話しているのである。

「とにかく大国の紙は、何といいますか、紙にほれるという俗なことばを使えばおかしいのですが、→度あの紙を見れば、ほれぼれして忘れられないという紙ですね」

「私は残念ながら、大国へは行かなかった。もう一ぺん悪い足を引きずって行くとすれば、そこへと思うくらいです」

「ここは、戦前から知っておったんですよ。そして柏崎で泊ったときに、湯之谷へ行くよりは、この大国へ行っておいたほうがよかったと思うくらい、その当時からの旧恋の土地ですけれどもね」
                    (寿岳文章『和紙の旅』)

 日本の紙に限りない愛慕を寄せ、その衰退を嘆いていたこの老学者が、大国の紙をこのように見てくれていたのだ。この老学者のことばを、沖津は息をつめて読んだ。長い雪国の冬が去って、春たけなわのころ、沖津は、この老学者を「旧恋の土地」大国の地へ案内してやりたいと思った。雪の上に幾何学模様をもってひろげられた紙干し板の壮観と、そしてそこに張られたクリーム色の和紙のやわらかさをぜひとも見せてやりたいと思った。なんとしても、大国和紙は守らなければならないと思った。今となっては、沖津は、この大国和紙の中に自己の生命の躍動さえ感じた。そして、この老学者の長い間の夢を実現させてやるためにも。

 
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