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「紙の匂い」 | 第二小説集『紙の匂い』

紙の匂いworks

紙の匂い 9

 昭和四十八年三月、国の文化財保護審議会は、大国和紙を記録作成の必要な無形文化財として答申し、文化庁によって指定された。これにともなって、県教育委員会も、あいついで県の無形文化財として指定した。国の文化財証書は、大国和紙保存会長である後藤良一氏宅の床の間に飾られた。県の文化財証書は、橋本家に保存され、紙筒の中に入れられたままであった。これ以後の大国和紙の包装紙には、「国指定無形文化財」の文字が黒々と押された。それとともに、大国和紙一枚の値段も二倍にはねあがって、全国的にいろいろな方面から注文がまいこんだ。
 後藤良一氏は、それにもかかわらずいまだに紙漉きを再開する気配を見せなかった。「もう一度はじめからやり直す」という意気ごみは、意気込みだけにおおりそうだった。なにより、紙漉き道具がそろわなかった。紙漉きは、一度廃絶してしまうと、たちまち道具が失われ、意気ごみはあっても、この方面の足元から崩れてしまった。後藤氏は、紙を漉かない保存会長として、その名に甘んじていなければならなかった。
 沖津は、その年四月、転勤のため大国の地を離れた。大国和紙文化財指定の報道を、転勤先で聞いた。この大国紙のためには、教職を投げうっても悔いはないといっていたのに、いざ現実となると、意志の通りに動かなかった。教職の方における己れの野心を伸ばそうとして、大国和紙を捨てた。新しい土地で生活をするようになると、大国和紙への情熱はたちまちさめ切ってしまった。さめ切ってしまうと、大国和紙の二年間が、まるで現実ばなれした夢の中のようなできごとに思えてきた。いったい、自分が、大国和紙とかかわったのは何だったのであろう。大国和紙を守ることに生涯をかけていいと思っていた自分は今の自分と別人ではなかったろうか。この二年間、なにをしたというのであろう。沖津もまた橋本家の人たちが物好きといって笑ったひとりにすぎなかったのである。
 夏には、橋本家の楮畑を鼠が食い荒した。前の年、肥料にするために、楮の根本にもみがらを引き込んだところが、鼠たちのころあいのすみかとなり、ねずみが増えて、楮の根を食い荒したのであった。そのため、いつもなら十月末まで青々した葉をつけている楮は八月末にすでに葉を落とし、丈も伸びず、皮も薄かった。紙漉きをやめた野地部落に、楮を大切に育てているところはなかった。ようやく、後藤良一氏から楮をわけてもらって、わずかばかりの紙を漉きあげる結果となった。
 翌年の年賀状の中に、あの小川町の伊原氏の奥様のはがきが一枚はいっていた。それは伊原氏が前年十一月になくなったことを知らせていた。
 その年、大国の地を「旧恋の土地」と憧れた『紙漉村旅日記』の著者は、変節性膝関節症で、大きな手術をうけ、いよいよ歩行困難となったことを知らせてきた。それをきいて沖津は、この老学者にとって、大国町は、幻の紙郷に終ってしまうのではないかと思った。大国和紙の前途がどうかわってゆくのか、だれも予想できる人はいなかった。

 今、沖津の机の引き出しには、数枚の大国和紙が大切にしまわれている。引き出しをあけると、子供のころ嫌ったあの独得の香が沖津の鼻を刺戟した。クリーム色のざらざらした紙が、電灯の光をやわらかくはじいた。これを漉いた橋本家の人たちはどうしているであろう。引き出しいっぱいに漂う大国和紙の匂いは、軽い悔恨を残しながら、沖津の胸深くしみこんでいった。

 
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