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「船頭亀吉」 | 第二小説集『紙の匂い』

船頭亀吉works

船頭亀吉 1

 信濃川は、日本一の大河である。その源を長野・埼玉県境の秩父山地に発し、長野県を縦断し、新潟県にはいると千曲川から信濃川へと名をかえる。長野・新潟県境の十日町地方は、古来妻有(つまり)の里とよばれ、越後のどんづまり、これより先のない袋小路の意であるといわれている。この妻有の里を、南北に貫く川が信濃川で、険しい丘陵をぬって流れるうちに深い渓谷を形成し、東西に雛壇のような見事な河岸段丘を作り出している。信濃川は古来から、この地に住む人にとっての母なる川であった。妻有の歴史は、この川の優しさと険しさの中に刻まれていた。この川は段丘を深くえぐって、あるところは絶壁の岸となり、あるところはいくつかの中州を作り、あるところは瀬とよぶ急流となって流れ下った。川が絶壁に激突すると、大きな渦となって人々を恐れさせた。この地方の人たちがマキとよぶこの渦は、妻有地方だけでも十箇所は下らなかった。信濃川を上り下りする荷船は、このマキの中に巻き込まれることを恐れた。このマキの中に船がはいりこむと、船は永久にぐるぐるとまわっているか、絶壁に激突してこなごなに破壊されるかのいずれかであった。また川は、短い間に大きくその流れを変えた。この附近は名だたる豪雪地帯で、この三メートルをこえる雪が融け出す春先は、この川が鉄砲のようにすさまじい叫びをあげて流れ下る時があるかと思えば、真冬には、ほとんど水が流れず、場所によっては歩いて渡れるところさえあった。一年のうちにこの渇水期と溢水期を何度かくり返し、水の流れはその度毎に変わった。それまでは流れが左岸にぶつかっていたと思うと、一水出たあと、ここは大きな石がごろごろとする石川原となって、流れは右岸に移動している。真中にシマとよぶ中州を作って、人々はここに畑や田を開いて何年も耕作していると、ある日このシマが忽然と消えてしまうのも珍しくない。信濃川はまるで大蛇がのたうちまわるかの如く変化する。陸上の交通が発達しなかったころは、川はこの地方唯一の交通路であった。この地方でとれる米や木材、炭、味噌、はては川原の石までも土台石として立派に舟にのせて川を下り、かわりに海産物や衣類、書籍や文房具が川を上った船でやってきた。むろん川を上るといっても人力で引きあげるのである。妻有地方の文化は信濃川を媒介として開けていった。
 しかし、一方では、東岸と西岸とに住む人達の往来をあたかもそそりたつ断崖絶壁のようにきびしく拒みつづけた。川むこうに嫁にやると親の死に目に会えないとこの地方の人たちはいう。あるいはまた「舟川越えは一里」ともいう。この地方で歌われる歌の一節に

  十日町から千手町 間に千曲の大川
  孫左衛門渡しかなかよかろ

というのがある。この川の東西を結ぶ橋がかかりはじめたのは、大正おわりから昭和にかけての頃であって、それまで川の東西を結ぶ唯一の通路は、長さ八間といわれる渡し船であった。大正八年に刊行された『中魚沼郡誌』によれば、このころ妻有地方で十四ヵ所の渡し場があったと述べられている。信濃川を上り下りする荷船を縦軸とするなら、東西を結ぶ渡し船は横軸である。妻有地方の人達は、この縦軸と横軸の交叉する所に住んでいた。そしで、いいかえればこの地方の人々の生活は、この激流を自由に船をあやつる船頭達の腕に支えられていたといってもよい。
 船頭亀吉は、明治三十八年、姿の渡し場で生まれた。姿の渡し場は中魚沼郡貝野村大字姿と東岸の中魚沼郡水沢村大字新宮とを結ぶもので古くからの渡し場であったという。亀吉の父国松も、祖父市兵衛もこの渡し場の船頭として生きてきた。
 渡し船は胴高船という長さ八間、メートル法でいえば約十五メートルの長さで、人なら二十人は乗ることができた。この船は、底板はブナかナラの堅材を使い、側は杉を使って作るが、この地方には船大工がいなかったから、長岡や小千谷の船大工がやって来て作りあげた。この船を信濃川の急流に浮かせて、擢と棹とを巧みにあやつって、目的の場所に正確に安全に着岸しようとするには、長い経験と優れた技術とが必要とされていた。さきにも述べたように川の流れも川床も目まぐるしい変化をとげ、渡し場もまた場所を変えねばならなかった。この川の性質をよく知って、それにあわせて操船する技術は、決して一朝一夕の間にできあがったものではない。祖父から父へ、父から子へ伝えられ、磨かれてきた神技ともいえるものであった。そこにまた、時代の変化によって新しい操船方法も次々ととり入れられてきた。
 船で川を横断するといえば、船首を対岸に向けて川の流れと直角に進むと思いがちである。流れのない湖や静かな入江のようなところならそれでいいだろう。しかし、流れの急な川では、水の抵抗を船腹にまともに受けてしまい、船は横転してしまう。そこで、着岸点からずっと上流に船を引きあげておいて、着岸点を目ざして斜めに川を横切る方法をとる。櫂越しとよばれる方法がこれである。これには、船頭が最低二人は必要であり、ひとりは船尾(艫とよんでいる)にいて大きな櫂をあやつって、これで舵をとる。もうひとりは船首(舳とよんでいる)にいて、櫂で水をかいて前進する。舳の櫂を打櫂とよび、艫の櫂を舵櫂あるいは艫櫂とよぶ。打櫂は舵櫂より短かく、水をかいて進むのに都合よくできている。船を発進させるときは、舳・艫二人が櫂を棹に持ちかえて、棹を岸や川底につきたててぐんと岸からつき離す。着岸するときも、この棹を使って、船が岸にぶつかるのを防ぎ、着岸のショックを和らげる。川の水が増えてくると、舳にいる船頭をふやして、船が流されないうちにすばやく横切る。船頭の数により、四人越し、五人越し、六人越しという。六人越しは、もう水の流れが早く、ほとんど渡しが不可能なようなときに渡す決死的な渡し方である。それも不可能な時には川止めとなり、目の前に家が見えていても、親が死にそうなときでも、川は越えることができない。船頭の数が増えるにつれて、お互いの呼吸がピッタリあっていなければならない。舳と艫の合図は、ことばでなく、艫がたっているタチバ板を踏みならすことによって行われる。船が着岸すると、みんなで船綱とよぶ麻ひもを引いて、岸伝いに船を上流に引き上げてから、再び漕ぎ戻ることになる。
 水が少ないときは、綱越しという方法がとられる。川の両岸に太い藁綱をはり、中央にたるまないように、左右とも岸近くなってから下の方に引綱を結んでゆわえておく。綱の高さは、船頭の胸の高さにあわせて真すぐに川を横切るようにしておく。船頭はひとり舳にいて足を踏んばって立つ。船は舳先を川上にむけておき、船頭は綱を手で繰りながら、船を横に移動させてゆく方法である。少し水が多くなると船頭が二人並んでこの綱を繰ってゆくのだが、流れが早くなってくると手で支えられなくなる。手を離すと船は流されてしまうので、少しも気をゆるめることができない。冬は、この綱に雪が積もるので、この雪を落とすことから始める。手で繰っていると手が冷たくなるので、藁で編んだ手袋をしているが、それでも対岸につく頃は、凍えかじかんでしまうつらい仕事である。
 大正年間にはいって、新しい方法がはいってきた。両岸に高いやぐらをたてて、このやぐらの間に太い針金を二本張る。後にこの大針金は鉄線ワイヤーにかわるのだが、ここにそれぞれ滑車をつけて、滑車からおりてきた親線という針金を船に結ぶ。船近くにきて、この針金を二つにわけ、一本はハナグリ縄といい舳先にむすび、もう一本は、舷と舷とを支えている舳のふなばりに結ぶ。このハナグリ縄の長さを、船が上流にむけてやや斜めになるように調節しておく。船頭は舳に立って、進行方向と反対側の水中に櫂を入れる。右へ移動したいときは、船首をやや右に向け、左側に櫂をあてておくと、船は水の抵抗をうけて右に動いてゆくという方法である。それは、ちょうどヨットが風を帆にうけて斜前方に動くのに似ている。ヨットの帆にあたるのが水中に入れた櫂であり、風にあたるのは水の流れである。船が岸につくと、舳先を反対にむけ、櫂も反対側に置くことになる。
船の移動によって、大針金の上をカラカラと音をたてて滑車が移動する。船は、川の上の一定の場所を左右に移動して客を運ぶという鉄索越しというやり方で、これだと船頭はひとりで十分で、短時間で船が動く。大正にはいって、どこの渡し場でもこの方法をとり入れるようになった。姿の渡し場は、大正七年、それは亀吉が本格的に父にかわって船頭をはじめた時にこの鉄索越しを取り入れた。これにも欠点がないわけでもなかった。滑車が大針金からはずれたりしたら、川の真中で動けなくなることである。またハナグリ縄が切れたりすると、船は川の流れと直角になり、転覆してしまうのである。舳で櫂を持つ船頭も油断していられなかった。水が多いときには、思いがけない力が櫂にかかってきて、櫂にとばされてしまうこともある。水が櫂にかかりそうな時は、すばやく櫂を水の上にあげて、水の力をそらしてやる。それでは船はすすまないので、また櫂をさげる。このあたりは長年の船頭の鋭いカンというより他はなかった。川は、たえず波立っており、いつも同じ力が櫂にかかるわけではない。大きな力がかかりそうな時は、前もって櫂をあげておく。このタイミングがおくれてしまうと船頭は櫂にはねられてしまう。そうした水難事故も決して珍しいことではなかった。川水は生き物である。この生き物を相手に水の上に船を浮かべているときは、一瞬の油断もできなかった。

 
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