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「船頭亀吉」 | 第二小説集『紙の匂い』

船頭亀吉works

船頭亀吉 6

 姿大橋の橋番になった父国松も、二、三年でやめてしまった。もうそのころ橋を渡る人から渡し賃をもらうことをしなくなっていたのだ。昭和十二年、日華事変がおこった。姿の渡しで必要なくなった亀吉は、国家が必要としていた。亀吉は、妻マスと四歳と一歳になったばかりの子供たち、いまだに寝たり起きたりの父国松を家に残して、支那戦線に応召した。直接戦闘には加わらず、前線に食料や弾薬を輸送する輜重兵であった。この輸送隊を支那の遊撃隊が襲った。それでも、この時は日本軍の勢いが強かったからよかった。亀吉は、ここでマラリアを患って、十四年に帰国、十五年再徴用され、こんどは南のガダルカナル島からビルマ戦線につれていかれた。再徴用されてから長男が生まれた。その時は、もはや日本軍が敗走する時期であったから、ずいぶんとひどい目にあった。
 昭和十七年十一月、輸送船カンベラ丸に乗りこんでガダルカナル島に向かっていた。十一隻の大型輸送船のまわりを護衛の駆逐艦がとりかこみ、空からは五十余機の戦闘機が従って、威風堂々と島の上陸を目ざしていた。それまでは戦闘らしい戦闘もなく連日の天気続きで、亀吉たちはちょっとした旅行気分であった。これだけの陣容があれば、敵もおそれをなして逃げてゆくに違いない。そのころミッドウェイ海戦で敗北した日本軍は守勢に転じ、主導権をにぎったアメリカ軍は一挙に攻勢に転じようとしでいた。アメリカ軍は、ガ島に飛行場を建設しつつあった日本軍の奪回のチャンスをねらっていた。むろん、そんなことを亀吉たちが知るよしもなかった。
 十一月十四日、明日にもガ島の島影を見ることができると話し合っていた正午すぎ、突然「空襲っ!」この声がかかった。ちょうどみんな食事中であったが、いっせいに甲板にかけあがった。遠い水平線上に、小さなトンボの大群のようなものが見えたかと思うと、それはみるみるうちに大きくなった。雲一つない青空がたちまち黒雲におおわれたようになり、無気味なエンジンのごう音が襲った。これはいったいどうなるのであろう。亀吉が初めて経験する戦争の恐ろしさであった。高射砲の打ち出す爆音で、船内が大きく震動し、敵の飛行機は急降下して爆撃を開始した。一瞬にして船内は大混乱となった。積んであったドラム缶に火がはいって、爆発し、大きな黒煙をあげる。船倉には大量の弾薬が山積みされている。船内のあちこちに火災がおきる。爆風で、高射砲隊員はふっとんでしまった。はらわたを出して苦しむ人もいる。これが戦争というものだろう。そのうちに「全員、海中に避難せよ」
という命令がくだった。タラップをおろしているひまはない。各隊の兵は、救命胴衣を身につけると、腰にさげているロープを船のへりに結んでするすると海面に降りていった。亀吉の体も、ふわりと海上に浮いた。赤道直下の海水はぬるま湯のように暖かかった。海上には、西瓜がういているように、点々と人が浮かんでいた。まわりに島影らしいものは見えない。後をふりかえると、今まで亀吉の乗っていたカンベラ丸が、船尾を大きく持ちあげて沈もうとしていた。ソロモンの海水は、油のような感じで亀吉の体にまといついてきた。あの信濃川の身を切るような雪どけ水が無性に思い出された。岩をかむ激流が、親しさをもって亀吉の脳裏に浮かんだ。岸辺のネコヤナギの柔らかな毛やマンサクの勲章のような黄色い花。いったい、このあたりの水深はどれくらいあるのであろう。数千メートルという途方もない深い深い海の上に、ポッカリと浮かんでいる自分は、いったいどうなるのだろう。このあたりには鱶がたくさんいると聞いている。鱶のいる海では、褌を長く伸ばして、ひらひらさせておくと、鱶はやってきて自分の体長と比べ、それより長いと逃げでゆくという話などを思い浮かべた。その長い褌もないおれは、鱶の餌食になるだけだ。こんどは、ふいに妻や子のことが浮かんだ。三人の子を叱りながら、病床でねたきりの父の世話をする妻の乱れた髪の毛などが思い出された。輸送船を攻撃した敵の飛行機ははるか遠くにとび去った。カンベラ丸は、大きな黒煙をあげて燃えていた。近くにいた那古丸、佐渡丸という二千トン級の大型輸送船もみな燃えたり、沈んだりした。仲間のところへいきたいが、あつまると機銃掃射されるというので、みんな離れ離れになっていた。もう日暮れもせまっていた。亀吉のまわりに人はおらず、みんなは遠く離れてしまった。日が暮れてしまったら、もうとても見つけてくれないだろう。このまま海の上で息たえてしまうのだろうか。不安は、ますます広がった。
 その時、突然亀吉の近くにボートが近づいてきた。亀吉は、必死に声をあげ手を振った。ボートが亀吉の方へ近づいてくる。これは助かるぞ。ボートは海にとびこんだ人たちを拾いあげて満員だった。そのぎゅうぎゅうづめのボートに引きあげられたとき、これで助かったのだと思った。水神様が助けてくれた。船頭をしていた亀吉が、あの身投げの女を必死の思いで助けたことや、あの船頭与之助を救いあげたこと、あるいは宮中から流れてきた流木拾いの年寄りのことなど、水神様がおぼえていて下さった。神明のマキの崖の上に祭った水神様のおかげだ。水神様の御力添えがあって、亀吉は、このソロモンの海の上に投げ出されて助けられた。これも亀吉が船頭をしていたからであった。亀吉は水神様に感謝した。

 
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