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「船頭亀吉」 | 第二小説集『紙の匂い』

船頭亀吉works

船頭亀吉 7

 亀吉の隊は、このあとビルマ・インド国境のコヒマ・インパール作戦に参加した。ここでは制空権を完全にイギリスに握られていて、敗走した。今までの戦争のような勝ち戦さではなかった。食糧はとだえ、雨期の豪雨にたたかれ、惨めな敗走であった。病気になったり、死んだ人は路傍に置きざりにされていった。きのこやミズナというようなものばかりしか食べず、体力は日ましに衰えて、みんなが自分で生きで動くだけで勢一ぱいであった。路傍に置きざりにされた死体はうじがたかり、二日もたたないうちにきれいな白骨となった。明日はわが身になることをだれもがひしひしと感じていた。なによりも塩分が不足してくると食べものがのどに通らず、すぐ吐いてしまうことには困った。亀吉は、この時、人にもらっていた釣り糸と針とで川魚を釣った。これも川に生きてきた亀吉の知恵であった。糸をたれると雷魚やふながおもしろいようにつれた。川魚にかすかな塩分が感じられた。なんとしてでも生きのびたいと思った。こんなジャングルの中でだれに見守られることなく朽ちはてたくないと思った。川の水は一度煮沸したものでないと絶対口にしなかった。川に沿って戦友が死ぬ。川水にはアメーバ赤痢菌がうようよしでいたのだ。のどの渇きに耐えられなくなって、生水をのむととたんに下痢がはじまり、しまいに血便が出て死んでいった。たとえのどが渇いても生水は絶対口にしてはいけない。若いものほどそれにたえられず死んでいった。三十九歳になった亀吉は、この部隊の中でもっとも年長であった。それだけの年月が刻みこまれた亀吉の体には、生きのびようとする正確な知恵と忍耐とが具備されていた。六十日間ものジャングルの中の彷徨に生きのびることができたのは、ほかならぬ船頭としての亀吉の知恵であった。中には、六十日の彷徨をようやくのりこえ、ラングーンの街にはいったのに、おはぎや赤飯をがむしゃらに腹の中につめこんでたちまち死ぬものも多かった。ここでも亀吉はいった。
「長いジャングル生活で消化器がすっかり弱っている。こんなときおはぎや赤飯などたべたらすぐ死ぬぞ」
 しかし、若い隊員たちは長い間の飢餓生活で現地人の売りにくるこの食べ物の誘惑に負けてたちまち腹痛をおこして死んでいった。せっかく、今まで苦労して生きのびてきたというのに、この都会にたどりついた途端命をおとすとは。亀吉は知っていた。家にいたとき、よく山羊の腹をさいた。その時、栄養のいい山羊の腸は脂でぬらぬらしていたし、栄養の悪い山羊の腸は、パサパサにかわいていた。今、二ヵ月の飢餓生活の中で、亀吉の消化器が、その機能をすっかり失っているのだ。こんなとき、いきなり消化の悪い肉や穀類をたべてはいけない。水のたっぷりはいったおもゆ、そしておかゆと少しずつ体にあった食物によって時間をかけて回復を待たなければならないのだ。これも亀吉の生きる知恵であった。
 この時、家からの手紙で、長女チカが信濃川に転落して死んだことを知らされた。わずか九歳であった。あの姿渡しの新宮側の船着場下だという。あそこは、急な崖になっており、そこから落ちたと知らされてぞっとした。なぜあんな場所にチカは花をとりにいったのであろう。チカの遣体は何日もあがらず、一週間もたってから、支流の中之口川で見つかったと知らせがあったという。中之口川といえば、もう海の近くで一度信濃川から分かれて再び合流する川である。白根の附近だったという。チカよ、おまえはなぜあんな川に流れこんだのだ。亀吉の頭に、ふくれあがったチカの水死体が、川に流れてゆく光景が浮かんだ。船頭をやめた亀吉は、もう信濃川から離れたはずであったのに、まだつながっていたのだ。しかも、川で何人もの子供を助けたその船頭の子が、川で溺れ死ぬとは、水神様もなんと無情な仕打ちをするのであろう。
 ビルマ山中の五尺の簡易テントの中で寝ているとき、亀吉は父の夢をみた。神経痛とリューマチで寝たきりの生活をしている父国松が亀吉の枕元に青ざめた顔をしで立っているのであった。
「つあ、なにかいうことあるんかい」
 亀吉が話しかけても国松はうなずくでもなし、口を開くでもなし、いつまでも立ちつくしていた。亀吉がはっと目ざめると、テントのすきまからこうこうと南国の月が輝いていた。亀吉は、ここが日本から遠い海を隔てた南国のジャングルの中だと知った。しかも、明日とも知れぬ自分の命なのだ。どうして父の夢など見るのであろう。父はその次の日も亀吉の夢に現われた。やせこけて、頬の骨のつきでた顔だった。いくら亀吉が呼びかけても、父はだまったままだった。亀吉の夢の中に父の姿が続けて三日あらわれた夜、亀吉ははっと気づいた。国松は死んだに違いない。あの顔は死に顔以外の何ものでもない。それにしても、故国を離れること何千里のこの異境の地に、父はなにをいおうとして亀吉の枕元になぞやってきたのだろう。亀吉は、父の気持ちを思いやって、はじめてさめざめと泣いた。病床に伏したまま、征きて帰らぬ息子の帰りをひたすら待ちつづけている父が哀れであった。亀吉は、このことをさっそく妻のもとに知らせた。故郷で父になにかあったのではないか。どんなことがあってもおどろかないから、正直に知らせてくれと書いた。一月以上たって、妻のマスから返事が届いた。そこには、案の定、父の死が書かれてあった。文字も乱れ、あちこちに涙のあとが残っていた。一年の間に、娘の棺を送り、今また父の棺をおくった妻の苦労が亀吉には痛いほど心にしみた。一刻も早く帰ってやりたいと思った。結婚以来、妻と暮らしたのは、わずか五年でしかなかった。三人の子供たちのうち長女は死に、長男は、亀吉が戦争に出てから生まれた。昭和十五年、マラリアで家にいるとき生まれた二男は体が弱かった。この子供たちに父親らしいことはなにひとつやってやれなかった。日本が戦争に負けるなら負けてもしかたがない。どだいこんどの戦争にはどこか無理がつきまとっていた。負けるなら負けてもいいから、早くやめてほしいと思った。一日も早く家に帰りたかった。
 昭和二十年、とうとう日本は戦争に負けた。しかし、亀吉がようやくわが家に帰ってきたのは昭和二十二年の六月であった。九年五ヵ月の軍隊生活であった。しかも、その間は、亀吉の三十三歳から四十三歳までの、人間としてもっとも充実した働き盛りにあたっていた。とにかく、生きて家に帰れたのでありがたかったのかもしれない。
 家にはいってゆくと、二人の子どもたちはおどろいたように亀吉を見た。二人とも父親の顔を知らなかった。トシの顔が見えない。
「ばあはどうしたん」
「去年死んだぜ」
 妻が答えた。亀吉は、しばらく声が出なかった。まさか母が死んでいるとは思わなかった。
「どうして知らせなかった」
「いくら手紙を出してもつかないんだんが」
 そういって妻は泣き伏した。亀吉が戦争にいっている間に、妻は三人の葬式を出した。
「大へんだったのう」
 亀吉のせいいっぱいのねぎらいのことばは短かった。仏壇には三つの位はいだけが置かれていた。
亀吉はいつまでもその前を動かなかった。トシが死んだとき、亀吉の家はわずかに二俵の保有米しかなく、そのうち一俵を葬式のために使ったという。あと一俵は、東京から疎開してきた人に提供し、以後一日一人二合の配給米がすべてであった。子供たちはいつも腹をすかし、この米の中に木の葉や豆を入れで量をふやした。子供たちに食べさせて、マスはいつも空腹であった。おかゆばかり食べたりしていると、畑へ出ても一時間もするともう体を動かすのがいやになってきた。そのうち人から品物をかりて行商をしてようやくきりぬけたという。亀吉が戦地で苦労していたと同じように、妻もまた必死に家を守っていたのだと亀吉は思う。自分だけがなぜ十年間もの間、戦場に駆り出されていたのか、亀吉は知らない。近所にこんなに長く戦地にいた人はいなかった。二十代を船頭として生きてきた亀吉は、三十代を兵士としで生きてきた。そしていつも人のために生きることが亀吉の人生であった。
 昭和四十三年、姿大橋は、鉄筋コンクリートの永久橋に架けかえられた。その橋のそばにあった亀吉の家もそのために移転した。橋の上を走る新型の乗用車は、この橋を十数秒で突走ってゆく。この橋のたもとに、渡し場へ通じている道のあとをかすかに見つけることができる。しかし、その道のいたるところに灌木が生い茂って人々の通行を拒んでいる。信濃川もまたかわった。上流のダムにとられた水量はずっと減って、川原の大きな石ころだけが妙に目につく、荒涼とした風景である。ダンプカーが往復して川砂利をとると川底は深くなり、いっそう岸辺の岩石を露出する。亀吉もまたすっかり年老いた。五月ころになると岸辺の灌木の若葉は、渡し場への道も、亀吉の長女チカの落ちた断崖もたちまちにして覆ってしまう。それと同じように、この川の上に展開された亀吉の人生などたちまち忘れ去られるに違いない。

 
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