本文へスキップ

「はらから」 | 第三小説集『さつきの花』

はらからworks

はらから 2

 汽車は、雪どけ水を集めて水量を増した魚野川を右手に見ながら走っていた。二郎は汽車の窓に額をくっつけるようにして外を見ていた。三月も末となり、窓の外の雪は深いけれども、森も家並も青空にむかってすっくと佇っていた。高校二年の二郎のすぐ前に、十日程前に中学校の卒業式を終えたばかりの弟の満が、固くなって座席に浅く腰かけていた。満もまた、膝の上に置いた時刻表に見飽きて所在なさそうに外を見ていた。あと三日したら、満は東京の小さな工場に就職することになっていた。二人とも、着古した学生服に身を包んでいるこの兄弟は、北魚沼郡の山麓の小学校の助教諭をしている兄の利一を訪ねようとしていた。この訪問の目的は、決して遊びではない、家を代表して金を受取りにいくためであった。
 この日、二人は、朝早く家を出て、午前中をN市で過ごした。上京する満のために、兄として二郎はささやかなプレゼントを買ってやり、食堂でおいしいものでも御馳走してやるべきであった。それが、あと三日後に別れる兄の心配りでもあるはずだった。しかし、家のものも、二郎も、そんな心配りをすることなどだれも気づかなかった。もし二郎が、それに気づいたとしても、そのための金を用意していなかった。二郎は、本屋によって、自分のために一冊の本を買ったあと、デパートに入ると、売場を素通りしてエレベーターで屋上まであがった。風のつめたい屋上は、この二人のほかに人はおらず、ペンキのはげた木のベンチが風に吹きさらされていた。金網に顔をくっつけるようにして、二人は棟を並べた町並を眺めた。二郎は、指さして、駅裏にある彼の高校の建物を教えてやった。信濃川がキラキラと光っているのが見え、東の山脈の青く霞んでいるのが見えた。そのあと、屋上の木のベンチに腰かけて、二人は、家から持ってきた、うめぼしと漬物のはいったにぎり飯を分けあって食べた。そこで短い時間を過ごし、十二時すぎの汽車にのるため、駅へ向かった。駅には、高校の合格生らしい一団が三々五々かたまり、談笑していた。新しい帽子に、新しい二本の白線が輝いていた。買ったばかりの教科書をかかえているものもいた。その一団から、時々高い笑い声が響き、いやおうなしに二人のところまで聞こえていた。満が二カ月まえまで希望し、憧れていた高校生であった。満は、その高校をあきらめて、東京へ就職しようとしているのだ。満はその一団に時々視線を投げては、手に持つ風呂敷包みを強く抱いた。二郎は、その満の視線をことさらに無視し、すぐ改札口をぬけた。満の気持ちが痛いほどわかったからである。
 汽車が、北堀之内の駅についたのは、一時を過ぎていた。降りる客も、二人の他はほんの二、三人しかいなかった。雪に埋まった小さな駅であった。魚野川の橋を渡ったところに、兄の利一が勤めている小学校があった。生徒の玄関口からはいったらよいのか、職員玄関から入ったらよいのか、二人が校門近くでためらっていると、利一がふたりの姿を見つけて、
「やあ」
といって私をあげた。ちょうど卒業式が終わったところで、盛装した父兄の姿も見えた。
 三人は、学校の宿直室で、謝恩会の残りのすしを食いながら話した。
「二郎の手紙を見たけど、家もそんなに金に困っているのか。おれの方だって、特別に金があるわけじゃないんだ。助教諭としての給料なんか、たかが知れているさ」
「今、家も金がなくてね。満は東京にゆくのだけど、その仕度もしてやれないのさ。俺もまた修学旅行にゆくし、どうしょうもなく、あんな手紙を書いたんだ」
「お前だって、楽々として高校へ通っているわけでないんだから、アルバイトしたっていいじゃないか。修学旅行は、どうしても行かなきゃならないんか」
「そういわれれば、いうこともないが、高校生のアルバイトに何があるというのだい。旅行だって、学校でやるんだから、しかたないだろう。人のように、服や靴を新調するでなし、ずいぶんみじめな思いをしているのさ」
「俺の方もスキーだって借金しているし、服の借金も残っている。もらう給料は少なくても、つきあいだけはしなくちゃならんしね。お前たちに金をやりたいけど、思うように金は残らないよ。それに、いつまで今のところへ勤められるかわからない。助教諭ほど身分が不安定なものはないのさ。それで、いつ東京へ行くんだい」
「あと三日したらゆく」
「そうか、体に気をつけてな。お前も、高校へ出してやりたかったのだが、これ以上、姉にも迷惑をかけられないしね。この俺の力じゃどうすることもできなかった」
「もういいよ、そんなこと。それより、兄さんこそ、早く正式な教諭として、一生勤められるといいね」 「それもなあ、こう先生が余っているんでは、いつ採用されるんか、将来のことはわからないよ。二郎は、高校を卒えたら、どうする気だ」
「うん、家も家だし、大学はあきらめたほうがいいと思っているんだ」
「でも、せっかく進学校に行ったんだから、なんとか大学へ出してやりたいんだがなあ」
「そりゃ大学にも魅力はあるけど、もういいよ。はじめて、こんな全日制の高校へ出してもらったんだから、満ばかりこんな形で、高校へも出さずに、俺だけ大学へゆくなんて、とてもできないよ」
「兄さん、おれのことなんかいいんだよ。兄さんの気のすむようにしてよ」
 満がいった。三人の話は、しばらく続いたが、いつまで話しあってもどうすることもできなかった。代々の小作農家で、狭い田しかない中橋家では、子供ばかりむやみに多かった。その子供たちが大きくなればなるほど、それぞれに金がかかり、ますます貧窮するばかりであった。三人の話は、話せば話すほど抜け道のない袋小路に入りこんでゆくしかない。
「ああ、どうして、わが家は、こんなに苦しいのだろうなあ。もっと財産があったり、子供が少なかったりしたら、みんながのびのびと自分の進みたいところに行けるのになあ」
 利一がため息まじりにいった。その場はいつのまにか、だまったまま寿司をかむ音だけになった。帰りぎわに利一は、二郎に二枚の千円札を裸のまま手渡した。それは、上京する満の仕度に足りないくらいだった。二郎は、小さい声で礼をいった。
「俺もまだこちらで仕事があるので、当分帰れないだろう」
 別れぎわに利一がこういった。利一と別れた二人は、急ぎ足で駅に向かった。
 中橋家は、子供が多かった。一番上の姉のミチと二番目のミエ子は、岐阜県の紡績工場に働いていた。もちろん、中学を卒業しただけで、高校へ出すことなど考えられなかった。利一は、ミチとミエ子の間に生まれ、中学を出ると、地元の農業高校の定時制分校に進んだ。利一は、あととりであったが、そのまま農業を継ごうとせず、大学を志願した。中橋家で、大学の資金があるはずがなく、ミチとミエ子が力をあわせて、利一の学費を出すことにした。利一は、定時制出身のハンディから、国立の受験に失敗し、岐阜県の私立の短大に進んだ。小学校の教師になろうとしていた。ミエ子の下に二郎がおり、その下に満がいた。満より三つ下に四男の和男がおり、さらにその下に末っ子の友江がいた。男四人に女三人、七人の子を一人前にするために、広作ととりは、現金を手に入れるあらゆる努力をして、それでもなお、中橋家は貧しく、子供たちは生きるのがやっとだった。

 
 > 2 >  >  >  >  >  >