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「はらから」 | 第三小説集『さつきの花』

はらからworks

はらから 4

 高校三年になった二郎にも、卒業後の進路を考えねばならぬ時期が来ていた。満が中学だけで卒業した以上、どんなことがあっても大学のことなど考えられぬことであった。いな、考えてはいけないことであった。しかし進学校であるN高校で、就職する者はほんの数えるほどしかいなかった。考えてはいけないと思いつつ、なんとかして大学の門をたたく道はないものかといつも何かを捜していた。
「二郎、お前の気持ちはよくわかるが、この家のことはお前もよく知っているだろう。お前を大学へ出すことなんかとてもできない。ミエ子や満があんまり可愛そうで……。そこで相談だが、お前が大学に出たいというなら、一つ養子になってみる気はないか」
広作がこういい出した。
「へぇ、どこの養子になるがだい」
「ほら、お前も知っているだろう。この上の村の大きなけやきの木のある旦那様の家さ。
あそこは、未だに子がなくて、困ってるがんだ。お前が養子になれば、大学ぐらいきっと出してくれるだろう。」
「おれは、相手の人さえ承知しでくれたら、別に、いやでもないんだが」
「お前さえ承知してくれたら、 一度たのんでみようと思っているがんだ」
 広作に相談を持ちかけられた二郎はびっくりしたが、それもまたやむをえないと思って承知した。しかし、おそるおそる広作が旦那様にたのみにいったが、すでに親戚の家から養子の相談がきまっており、だめだったという。
 二郎が大学に出たいと考えるのは、これを偉くなるための手段とするのではなく、ただもっと学問の深いところに触れたいためであった。二郎の心の中で眠っていた学問への好奇心が、この三年間の高校生活の中でむくむくと成長してきた。これも考えてみれば、利一の力といってよかった。満のことを考えると、とても大学へ進むことは無理であった。大都会の小さな工場で、満は兄たちへの暗い心を抱きながら、固い鉄板を切ったり、溶接したりしているだろう。一学期がおわるころ姉のミエ子が手紙をよこした。

 お前が大学へ行きたいという気持ちをもっていることはよく知っています。姉さんはことし結婚することになっており、これ以上力を借りることはむりでしょう。お前がどうしても大学へ行きたいというなら、月々わずかな金だけど、送ってやっていいです。兄弟の中で一番頭がよく、親思いのお前なのだから、きっと私の金を無駄にはしないでしょう。この前、家からも金を送ってくれといってきました。お前のところへ送金し、さらに家からもせびられ、私も困っています。わずかな貯金をおろして家に送りました。中学を出て、まだ四年しかたっていない紡績女工の私に、どれだけ賃金が入るというのでしょう。友だちは、いつも、あなたばかりが、どうしてそんなに苦労しなければならないのといっています。他の人が買物に行こうと誘っても、私は、だまって笑っていました。いいのです。私達兄弟は、みんな苦しんでいるのですから。お前にこれから先何年仕送りできるかわかりませんが、(だって私だって結婚もしなければならないんですから)どうか、しっかり勉強していい大学に入ってください。

 二郎は、手紙を読み終えると、部屋の畳の上にごろりとあおむけになり、手枕して、窓の外の青空を眺めた。姉のミエ子が自分のことも考えずに自分に仕送りしてくれるという、その気持ちを恐ろしいように感じた。すでに三年間、じっと歯をくいしばって二郎へ仕送りしてきた。この上さらに、大学の四年間続けるところまで仕送りしてやるというのである。いったい姉の青春とは何であったのか、ひたすら兄弟のために身を削ることでなかったのか。いくらなんでも、満を犠牲にし、その上さらに姉までも犠牲にして二郎は、その良心に痛みも感じることなく、生きていけるのだろうか。こんなにまでしてゆく大学にいったいなにがあるというのか。
 しかし、それでもなお、大学の魅力は二郎を離そうとはしなかった。大学にいって、やりたいことは無数にあった。今、二郎が書き続けている童話をたくさん書いてみたいと思っていた。山奥の村に分け入って老人から昔話を聞きたいと思っていた。村の子供たちに伝わっている遊びを採集して、後世に残したいと思っていた。そのため、二郎の生活は、できるだけ都会化されない山村を基盤にしなければならなかった。大学への夢を実現しようとするには、都会に出て、働きながら学ぶ夜間大学の門も開かれているはずだ。
 二郎の心の中には、姉や弟を思う気持ちと大学への憧れと、この二つが矛盾をはらみながら、絡みあい、もつれあって、いつまでもそれ以上のところへ動かなかった。たまらなく金がほしいと思った。大学の四年間をすごすだけの最低の学費だけでよい、しきりと金がほしいと思った。
 二郎が下宿しているこの寺には、他にも高校生が一緒に泊まっていた。家からはたっぷりと金をもらい、映画を見たり、喫茶店にはいったり、週刊誌を買ったり、勉強することより高校生活を楽しめばよいのだった。よく近所の女子高校生が遊びにきた。二郎が夜中に目を覚ますと、隣の部屋で、おそくまで遊び、話し込んでいる声が聞こえた。そういうとき、二郎は、頭まですっぽりとふとんをかぶって眠ろうとしても、耳はさえるばかりであった。
 三十分の汽車の通学途中には、N市へ通ういろいろな高校生に出会った。二郎の乗る次の駅から、N市の別の高校へ通学している女子高校生がいた。目の大きい、丸顔の彼女の姿が、しきりに気になり出していた。彼女の姿を、駅のホームに見つけるとほっとした。彼女の姿を見ない日は、一日中落ち着かなかった。そのうちに彼女の乗る車両が、毎日決まっていることを知って、わざとその車両に乗った。まだ名前も知らなかった。そのつもりになれば、同じ駅から乗る二郎の友人に聞けば教えてもらえるはずだ。二郎のクラスはいかつい黒い制服をつけた男子ばかりだったから、女子高校生の白いブラウスや、紺の制服に関心がないはずなかった。友人の中には、同じ汽車通学をしている女子高校生に話かけたり、手紙をやりとりしている人もいる。毎日、同じ汽車に乗って通学しておれば、名前より先に、顔を覚えてしまう。中が空いているのにデッキにいて、男女二人の高校生が話しこんでいるのを見ることもあった。
 二郎の座っている前の席に、時として彼女がすわったりすることがあった。二郎はたいてい、膝にのせたカバンの上に、教科書を拡げているのだが、目の前にいる彼女のことが気になって、教科書の文字は、頭にはいってこなかった。二郎の教科書のすぐ前に、カバンを支えている彼女の白い手があり、その方にばかり二郎の目がいった。白いブラウスの袖口がまぶしかった。カバンのとめ金に、小さな犬のマスコットがゆれていた。
 そのうち、二郎が注意しでいると、彼女の方もしきりに、二郎の方を見ているのに気づいた。ぼんやりと何をするでもなく、窓の方を見ながら、時々二郎の方を注視する。教科書の文字を追っている二郎にも、そのことはよくわかった。そのうち、他の席が空いていても、彼女が二郎の前にきて座ることに気づいた。たいていの女子高校生なら、男子高校生の前の席がたとえ空いていても、遠慮して座らない、そこはカバンの置き場にするだけである。彼女は、何の抵抗もなしにすっと二郎の前に座る。二郎は、いつのまにか、それを心待ちにしているところがあり、前の席の空いているところに予め座っている。この彼女に声をかけてみたらどうであろう。彼女もまたそれを待っているのではなかろうか。
「あなたの学校、いつから試験ですか」
「あなたの学校にいる〇〇先生知っていますか」
「いま、国語は、どんなところ習っているんですか」
 いったい、どういうことばで声をかけたらよいのであろう。二郎のことばは、音声にならないまま、頭の中を回転しているだけである。
 朝、きょうは声をかけてみようと思い、帰ると明日は声をかけようと思い、いつまでたっても声をかけられない。二人はだまって座っているだけである。彼女に声をかけたら、すぐに応じてくれるだろう。その彼女と友だちになれたら……二郎の高校生活は、バラ色に輝くに違いない。そう思って、下宿に帰ってみると白い封筒があった。しかし、それは姉のミエ子からの手紙だった。

 お前も元気でやっていることと思います。今月分、四千円送金します。このお金をおくると、私の手元には、ほんとに、千円札がたった二枚しか残らないのです。買いたい服もありますが、もう少しがまんすることにしました。靴もこわれたのでなおしてもらわなくてはなりません。それでも、お前のために、歯をくいしばってがんばっています。どうかそのことを忘れず、しつかり勉強して下さい。他の人と同じような高校生活はできないのです。高校生は勉強がなにより第一です。お前は私たち兄弟の中で、一番いい学校に出ているのです。くれぐれもそれを忘れないで、体にだけは気をつけて勉強して下さい。
                              ミエ子より

 この手紙は、二郎を現実のきびしい世界にひきもどした。二郎のまわりは、兄弟たちの目に見えぬ糸が幾重にも、はりめぐらされているのである。姉や弟の尊い犠牲の上に築き上げられた高校生活なのであった。その身のほどもわきまえず、知らない女子高校生に話しかけ、友だちになってもらおうと考えているのだ。もし、二郎のよびかけに、彼女が応え、女友達となれたとしたら、二人はどこで会うことになろう。N市の喫茶店か公園で会うとして、その費用はどうするというのか。姉のミエ子がぎりぎりにきりつめてくれた金を使うしかない。満が全身油だらけになって働いていることも忘れているのか。二郎は夢を見ていたのだ。だれだって、現実の生活が厳しすぎると、その夢の中で遊ぼうとする。夢の中ではバラ色の花の香りの中で、思う存分高校生活の甘い蜜に酔うことができる。しかし、それは甘ければ甘いほどたちまち覚めてしまい、そしてなおさらみじめになるだけである。

 
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