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「はらから」 | 第三小説集『さつきの花』

はらからworks

はらから 7

 上野駅から国電と私電とを乗り継いで、一時間ほどのところにあるS市の駅に降り立つと、雨が降っていた。満が書いてくれた地図をカバンの中から取り出して確かめてから、二郎は駅前の道を真っすぐ、満の工場に向かって歩き出した。その道を三十分も歩いたところに満の働いている工場があるはずだった。大学三年の春休み、東京での最後の一日をこうして、満の工場を訪ねることにしたのだった。
 市街地を抜けると、道路の舗装が切れて、砂利道となり、道のいたるところに窪みができ、そこにすべて水がたまっていた。その道をトラックがスピードをあげて通ってゆくので、道路の端によけた二郎のところへ、容赦なくはねが飛んできた。両側は、鉄工所や鋳物工場の傾斜のゆるい大きな屋根が並び、金属音が大きく道路の方まで響いていた。側溝に泥水がよどんでいた。満の工場への道は遠く、家から携えてきた土産物のはいった風呂敷包を何度も持ち替えながら歩いた。なんのために、こんなところまで来なければならないのだろうと思った。仕事が終わってから、東京の方へ出てくるように電話すれば、それで済むはずであった。しかし、二郎は、満の働いている工場を見、働いている姿を見ようと思った。
『R電機工業株式会社S工場』の看板は、その工業団地の一番端にある新しい工場であった。ここが満の職場であった。事務室のドアをあけて、満の兄であることを告げ、満を呼んでもらった。まもなく、満は、油じみた作業服を着て、とったばかりの軍手をもったままやってきた。
「早くついたね。工場の中を見るかい」
といった。二郎は、荷物を置いて、満のあとについていった。広い工場の中は、雑然としていて、大きな工作機械が所せましと並べられていた。床には、鉄の材料が重ねられ、切られ、穴をあけられた製品が並べられてあった。床の上には、電気のコードが這い、天井には、フックのついたチェーンが鉄材をゆっくり運んでいた。ここでも高い研磨音が工場の大きな建物に反響し、溶接に使う青白い火花が、花火のようにあたりを一瞬照らし出した。
「ここが、僕のいままで仕事をしていた場所さ」
 満は、そういって、二郎の前で大きなはずみ車を回して、厚い鉄板を紙を切るようにして二つに切って見せた。二郎が驚いたように見ていると、
「今は慣れてしまつたが、はじめはうまくいかないでね。この機械は、うっかりすると、指まで切ってしまうくらい危険なのさ。うちの工場で働いている人も、指のない人が何人もいるよ」
といって、満はたやすく笑った。
 工場の外は、完成された製品が並べられてあった。二人の背より高い鉄の箱だった。
「この中には、ビルや工場で使う配電盤が入るのさ」
 満は、その箱の外側の鉄板をたたき、ノブを回して鉄の扉をあけて見せた。中は空になっており、新しい塗料の匂いがした。
「自分の作った製品が、実際、工場やビルで使われているのを見ると嬉しくてつい目がゆくのさ」
 満は、よくしゃべった。二人して、利一の小学校を訪ねてから、四年がすぎていた。この四年間に、なにより満は、饒舌になっていた。
 満が、就職した翌年のお盆、白いほう帯を右手にして帰って来た。鉄板を持ったまま転んだのだという。そのほう帯を替える時、深い傷が幾筋もついているのを二郎は見た。指の爪は、どれも荒れて、ささくれだっていた。その満の傷を見るのが、二郎には辛かった。満は、連日遅くまで残業が続くといっていた以外、その苦しさを口に出していうようなことはなかった。それだけにかえって、二郎の心は痛んだ。満の生活を犠牲にして、今の二郎の大学生活があるのだ。大学ではよく仲間と一緒に、旅行に出かけることもあり、女子学生とのダンスパーティにも出かけていった。コンパに酒をあおって、やっと寮にたどりつくこともあった。油にまみれて、このゴミゴミした工場の中で、満が鉄板を切ったり溶接したりしている時に。これが同じ兄弟であった。もし、二郎が満より後から生まれていたら、今の境遇は逆になっていたであろう。
 工場を案内し終えると、二郎の持ってきた土産を受け取り、満はそのまま仕事場へ戻った。二郎は事務室でお茶をもらい、しばらく工場長と話した。
「中橋君は、模範的な工員ですよ。ほんとによく仕事をしてくれます」
「今現場をみせてもらい、元気そうなので安心しました」
「それにしても、あんたの家も、上の二人の兄さんだけ大学に行って、何故満君だけ高校へ行かなかったのですか」
「私がわがままだったんです。自分のことばかり考えていて、弟のことを考えてやれず、弟はほんとうにかわいそうなことをしました」
「満君は、兄弟の中で自分だけが犠牲になったんだといっていましたよ」
「たしかに、そうだったかも知れません」
二郎は、ことばを短く切って、冷えたお茶を飲みこんだ。二郎の目の前でいとも簡単に鉄板を切った満だったが、その満にこの暗い気持ちがあったことを知って、二郎は大きな衝撃を受けた。今まで、だれにも自分の生活を口に出して、不満をもらしたことのない満だった。しかし、その暗い気持ちを心の奥深くしまいこんで、意識して口に出そうとしなかった。兄弟のだれにもいわなかったことを、第三者にもらす、それはありうることであった。満の明るい顔を見て、今まで抱いていた満への不安が消えようとしていた時だったのに、それは、刃物のように二郎の心に食いこんだ。利一や二郎に対して持っていた暗い心を、忘れようとして、がむしゃらにこの機械の騒音の中で働き通したのではなかったか。その満の気持ちがあわれであった。満を犠牲にし、姉達を犠牲にし、高校、大学と進んだ自分の今まで歩んできた道が、はたしてほんとによかったのだろうか。利一からすすめられた高校であったが、あの時夜間の定時制高校に進む道もあったはずだ。もし、それができなかったとしても、有坂氏のいうように、東京で就職し、夜間部の門をたたくべきであった。それで、これからの自分の生き方が変わろうとも思えなかった。そうすれば、それは満にも、自分の好きな道を選ばせることもできたはずである。自己のエゴのために、次々と姉弟を犠牲にした。それは生涯、二郎の胸の奥に、暗い影を落とし、決して消えることはないであろう。
 事務所を出ると、そのまま駅へ向かって歩き出した。駅までの道のりは遠く、雨はますます強くなっていた。

 二郎は大学を終えて、教員になった。和男も高校・大学を出て教員になった。利一と和男はそれぞれ教員と結婚したから、お盆に兄弟が集まると五人の教員が集まった。満は永く勤めたR電機から独立し、新たに町工場をつくり、人も雇った。末っ子の友江は、姉たちと同じ紡績工場に勤めたが、故郷に帰り二十歳前に早々と結婚した。

 
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