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「彼岸すぎても」 | 第三小説集『さつきの花』

彼岸すぎてもworks

彼岸すぎても 1

 妻の不機嫌は、ある日突然やってくる。 その日の朝、父母や子供たちがみんな起きて居間に集まっていても、妻だけが起きてこない。さっきから何回も起こしに行ったのに、ふとんをかぶったまま、すねた子供のように起きようとしない。私は、しかたなく、八十近い母を促して、朝食の準備を頼んだ。小学四年生の浩美は、心配そうに、
「お母さん、どうしたんだろうね」
と話しかけてきた。
「心配いらないよ。きのうの夜よく眠れなかったせいだよ」
と私はいい、昨夜の残りのみそ汁を音をたてて飲み込んだ。そういえば、妻は、みそ汁をずうずうと音をたてて吸うのを嫌っていた。ごはんをくちゃくちゃと音をたてて噛むのも嫌っていた。妻の不機嫌は、何より寡黙になることから始まった。いつものように気軽に話しかけても、話にのってこない。それを無視して、話しつづけると、
「ぺちゃくちゃとよくまあ話すものね、じいちゃんにそっくり。だからわたし、この家がきらいなの」 という。私の話し方が妻の嫌っている父のしぐさに似ているというのだ。十五年も一緒に暮らしていれば、妻の心の中は、手にとるように見えてくる。そういえば、昨夜も寡黙だった。こういう時はひたすら時が癒してくれるのを待つしかないと私は思っている。
 その日の夜も、妻は電話もなしにいつまでも帰ってこなかった。いつまで待っていても来そうもないからといって、みんなが食事を終えた頃帰ってきた。
「夕飯は、どうしたの」
と私がきくと、無言のまま、部屋の戸を大きな音をたててしめた。二階から電気掃除機を運んでくる音がして、部屋の掃除を始めた。掃除機の吸い口の先をガチャガチャさせてさしこむと、ブーブーと音をたてて掃除機を動かし始めた。そのころ、父母は、もう自分の部屋に戻っていたし、私と中二の良明と浩美の三人は、追い出されるようにして二階の自分たちの部屋に戻った。まもなく掃除は終わったらしく、妻は部屋に入ってきた。
「いったい何があったんだい」
と私が聞くと、妻はしばらく答えず、
「どうせ、あんたは、わたしよりも親の方が大事なんでしょう」
といって、押入れの中から、わたしの分のふとんをわしづかみにして引き出すと、階段の下に向けて投げおろした。電気毛布の調整器が、がらんがらんと階段を転がり落ちてゆく音が響いた。
「あんたは、わたしと同じ部屋で寝るより、親と一緒に寝なさい」
 吐き捨てるような高い声で妻はいった。わたしは黙っていた。いくら思い出そうとしても、妻の怒りをまねくような原因がわからない。
「いったい、おれが何をしたというんだい」
「そんなことわたしにいわせなくても、ちゃんとわかるでしょう。だからあんたは鈍感というのよ」
そういえば、きのう、朝食の時、読み終えた新聞を、いつものように父のところに差し出したら、
「わたしに新聞を読ませないというの。どうせわたしなんか、この家ではよそものなんですね」
と妻はいった。しいて原因を捜すとしたら、こんなことくらいしか思いつかない。わたしは、だまっていた。階段の下に投げ捨てられた敷布団をていねいにたたみ直すと、掛け布団とは別々に、二階に運び上げた。そして、書斎の床の上に、うすべりを敷いて、そこに布団を敷き直した。また当分、妻とは別々の部屋に寝なくてはならない。妻の不機嫌には言葉が通じない。ひたすら時間の経過を待つほかない。今度は一週間だろうか。それともいつもより激しそうだから十日くらいかかるだろうか。
 ひとりで寝ていると、浩美がそっとドアをあけてのぞいた。
「どうしたの」
とわたしは聞いた。
「おかあさん、どうしたんだろうね。何をおこっているの」
「心配いらないんだよ。すぐ直るんだから」
「わたし心配で……よく眠れないの。まさかおとうさんとおかあさんリコンするんじゃあないでしょうね」
「ばかだね、おまえ。そんなこと心配しているのか。離婚なんかしたら、おかあさんは、どこにゆくところがあるというの。子供は、そんな心配しなくてもよいんだよ。さあ、はやく歯みがきして寝なさい。おとうさんももう寝るんだから」
 浩美は、しくしくと泣きながら、自分の部屋に戻った。わたしも机のスタンドを消して布団の中にもぐりこんだ。階下では、父母もはらはらしながらこのようすを聞いていただろう。子供たちは子供たちなりに心配しているに違いない。妻はもう寝ただろうか。いつもは、手のとどくところに妻の手があった。妻の寝息も聞こえたし、妻の体臭も嗅ぐことができた。この書斎は、自分がいままで集めた本と、書きなぐってきた精神の断片にまわりをぐるりと囲まれていた。妻の不機嫌の原因をいくら思い出そうとしても思いつかなかった。「わたしと寝るより、親と一緒に寝なさい」という言葉は、明らかにわたしの父母に対する態度が原因しているような気がした。しかし、それは結婚以来、たとえ一時期、わたしの勤めの関係で別居したことがあったとはいえ、十五年も同居しているのだ。今改めて態度を変えたわけでもない。それとも、妻の心の奥に深く堆積していた不満がこんな時に一時に噴き出したとみるべきなのであろうか。

 
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