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「活字」 | 第三小説集『さつきの花』

活字works

活字 1

「おい、幸雄、きょうもまた忘れたんか」
 学校に着くとすぐ、次郎は幸雄に話しかけた。
「いや、きょうは忘れずに持ってきたぞ」
 そういって幸雄は、おもむろにカバンの中から四つ折りにした新聞を取り出した。次郎はそれをもぎとるようにして、バサバサと新聞を開いた。「お母さんの童話」欄は、その新聞の中ほどに囲みになっていて、そこに「忘れた図画」という大きな活字が次郎の目にとびこんできた。そのわきには紛れもなく「山本次郎」という作者名が印刷されてあった。それは、何度見ても次郎の作品に間違いなかった。自分の名が、こんな大きな活字になって新聞に載っている。次郎は信じられなかった。むさぼるようにしてその自分の作品を追っていた。わずか原稿用紙三枚の作品は、たちまち読み終えたが、いつまでもその活字から目を離さなかった。次郎の作品が新聞に載ったことを知らせてくれたのは、次郎のクラスの幸雄だった。お前の名が新聞に出ていたが、同姓同名の別人かというのであった。次郎もそれが、ほんとうに自分かどうかわからなかった。それというのも「お母さんの童話」に投稿したのは、高校一年の三月ころであったから。それ以来、次郎はしきりにその新聞を見せてくれと幸雄にたのんでいた。幸雄はなかなかもって来なかった。
 N新聞の「お母さんの童話」というのは、その題からみて、お母さんが子供によんでやる童話なのか、お母さんが子どものために作ってやる童話なのか、趣旨がはっきりしなかったが、一般読者の投稿作品を掲載していた。原稿の長さは三枚、中央の著名な童話作家が選者となって、毎週一回、一遍ずつ新聞に掲載していた。次郎は、気まぐれに自分の作った童話をここに投稿したのだったが、まさか入選するなどとは夢にも思わなかった。
 この作品のあらすじはこうなっていた。小学四年生の主人公俊夫は、前から宿題になっていた図画をその日に限って忘れてしまった。忘れた仲間は他にもいたので、先生は、教室に立たせ、叱られた。初めて忘れものをした俊夫は、恥ずかしさのために立つことができない。ほかの人は、忘れたのに立たない次郎の方を見ている。次郎は大きな罪を犯した気になって、先生のいうことも頭に入らない。休み時間になって、教務室まであやまりにゆくが、教務室の戸をあけることは、もっと勇気のいることだった。人について先生の前にゆき、事情を話すと、先生はあっさりとゆるしてくれた。今までの心配がうそのようになくなって晴々とした気持ちで教室に帰ってくる。
 この作品の中の俊夫は、ほかならぬ次郎の姿だった。小心で、自分の気持ちを表現しようとしない小学生の次郎の姿は、高校生になった現在も、あざやかによみがえってきた。
 その日、次郎は、活字になった自分の作品を何回読み返したことであろう。原稿の時の表現のつたなさや、たどたどしさは活字になるとともにすっかり消えていた。今までのすぐれた常連投稿者の作品の中にあって、十六歳の次郎の作品が入選した。中央で著名な童話作家として知られる選者は、次郎の作品を次のように評した。

「忘れた図画」はずっと前の投稿作品の中から選んだ。子どものなやみ、心理の動き、少年の心理を描く、作者山本次郎君は、高校一年、十六歳。

 高校一年、十六歳という文字に、選者の熱い期待が込められていた。次郎は、なんとか選者の期待にこたえたいと思った。この日から次郎の生活が変わった。三枚の原稿用紙の中に、自分を自由に遊ばせることを知った。原稿用紙のマス目を埋めてゆくうち、中間テストが迫っていることも、いつも貧しさに押しひしげられ、気が小さくおどおどした高校生活をおくっていることも忘れた。次郎の夢はとめどなく広がり、いつまでも現実生活に戻ってこようとしなかった。「君は、未来の小川未明になれるぞ」といった言葉が、胸の中でくりかえし思い出された。テストが近づいてくると、童話を書きたい誘惑にかられた。「忘れた図画」を新聞で見た日に、また一遍の童話を書きあげた。その題を「水色のハーモニカ」と名づけた。
 小学五年生になった俊夫は、小さい時から音楽の時間が嫌いだった。彼が歌うと、その調子はずれの歌をみんながゲラゲラと笑った。なんとかして、人に笑われないように歌いたいと思っていた。ある時、友達の勇次が、セルロイドでできたおもちゃのハーモニカを吹いているのを見る。さっそく、それを買っていろいろな歌を練習する。音楽の本にあるやさしい曲を何回も練習する。この歌をハーモニカで吹けるようになれば、みんなも俊夫の歌を笑わず、学芸会の合奏にも楽器をもたせてもらえるかも知れないとひそかに期待する。ある日、学校では、ポケットの検査があり、俊夫のポケットに、あの水色のハーモニカが入っているのに気づく。先生に見つかったら一曲得意になって吹いてやろうと思ってひそかに期待する。しかし、そのハーモニカに気づいた先生に、「もう上級生になったのだから、こんな子供のおもちゃを学校にもってくるものじゃないよ」といわれて、みんなに笑われてしまう。俊夫の期待はしぼみ、ますます歌への劣等感をつのらせてしまう。
 これもまた小学校の次郎の分身であった。童話を書くたびに、次郎は、小学生のころの次郎へ帰ってゆくのである。内向的で、自己表現のできない次郎の小さいころをいとおしむようにして、書いてゆく。人と話したり、一緒に遊ぶことより、一人で、ぶつぶつと一人言をいいながら、心の中の世界に遊んでいる。その次郎は、高校生になっても少しも直る気配を見せなかった。
 その作品を投稿した日から、毎週土曜日のくる日が待ち遠しかった。毎週土曜日の夕刊に「お母さんの童話」は掲載されていた。駅の近くに下宿していた次郎は、月ぎめで新聞を講読することなどできない。土曜日の四時の汽車でその夕刊は駅の売店におろされる。
次の週も、その次の週も、次郎の作品は載らなかった。しかし、あの作品は、必ず載るはずだと次郎は、確信を持っていた。
 学校では、頻繁にテストがくり返された。学期二回の定期テストのほかに、校内模擬テストもあった。数学と英語の苦手な次郎は、その勉強の大半をこの二つの教科に費やした。将来の次郎がどのような道に進むにせよ、なんとかこの不得意な学科をなくしなければならなかった。しかし、数学の式を書き、数字や符号をノートいっぱいに書いてゆくと、いつの間にか頭がボウーッとして目がかすんできた。英語の活字も、読んでゆくと、次郎の知らない遠くの国の人のできごとやものの考え方と思ってしまい、次郎の生活とは、あまりにもかけ離れた人々のことだと考える。そうすると、急速に興味を失っていった。そんな時、次郎の心を占めてゆくのは、少年時代の甘く、もの哀しい感傷の世界であった。やさしい童話の世界であった。それは、誰の侵入もゆるさぬ、彼だけの世界であった。
 七月にはいっての日曜日、次郎が家にいると、「書留!」という声が戸外でした。次郎があわてて、玄関に出てみると、局の配達の人が、現金封筒を手にして立っていた。ハンコをくれという。それは、N新聞社の差し出したものであった。中から、一枚の五百円札と三枚の百円札が出てきた。

 拝啓、益々御清祥のことお慶び申し上げます。
 さて、このたび本紙のため玉稿を寄せて頂き、六月八日付本紙に精彩を加え得たことを厚くお礼申し上げます。
                             N新聞社
  山本次郎殿

 この八百円は、生まれてはじめて、次郎が自分の手で稼いだ金であった。しかも、自分の好きな童話が、八百円の金になった、もし将来、自分の書いた作品が活字になって売れるとしたら、この何倍もの原稿料がはいってくるはずである。次郎は、自分がいつのまにか小説家になってゆくような気がした。いやいつか有名な小説家になってやるぞと思った。「やったぞ、やったぞ」黄色い現金封筒をにぎりしめて、次郎は、誰もいない家の中を叫びつつ、狂ったように走りまわった。自分は有名な小説家になって、かつて彼の、小心や貧困や不器用さを嘲笑した人たちを見返してやるんだと思った。彼の貧困な高校生活から抜け出すのだと思った。
 それから十日がすぎ、次郎が作品を投稿してから一カ月たった土曜日、「水色のハーモニカ」は、予想通り新聞に載った。そして選者は、次のように批評してくれた。

「水色のハーモニカ」で、俊夫の気持ちは、先生と級友から見事に無視されました。つめたい目――とまではいかないにしても、この先生は、かるくやりすごし、俊夫にはそれが重いものになりました。非合理と思えるものごとも、ねんごろにわけ入ってみれば、その実体にふれることができるのに――。一方俊夫も、もっと自己表現の勇気を持ってほしいという感想も湧きます。問題のある佳作です。

 自己表現の勇気をもってほしい、次郎もそう思う。なんという気の小さい俊夫だろう。
この愛すべき小心な俊夫、その俊夫が、こうして高校生になってはじめて、自己表現する勇気をもって作品化しているのだ。選者にそう訴えたかった。この童話こそ彼の内面の告白であり、彼の唯一の自己表現であった。

 
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