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「活字」 | 第三小説集『さつきの花』

活字works

活字 2

 高校では、次郎はすぐ文芸部にはいった。運動の嫌いな次郎は、これより他に入るクラブはなかった。部員は、二十人くらいいたが、実際に活動するのは、半数にも満たなかった。
 みんなが作品をもちよって、ガリ版刷りにして批評しあった。次郎が、ここで驚いたことは、上級生たちが「ニヒル」とか、「オプテミスト」とかという言葉を使って話すことであった。話題になっている石原慎太郎など現代小説もしきりに読んでいる口ぶりで、今まで、自己の内面の世界を作品化することしか知らなかった次郎には、どこか場違いなところにまぎれこんでしまったような気持ちであった。文芸部の機関誌は、『かえで』といって、もう十四号を数えていた。一年の時、次郎は、ここに二つの詩をのせた。

 ひぐらし

遠い山でひぐらしが鳴いている後ろの杉林でも鳴いている
山脈のうねりを越えて
こだまする
ひぐらしの合唱

 静 寂

静寂がそっとしのびより
その静寂の虜になって
その中に座っている私
遠い遠い思い出の数々が
わけもわからぬもやもやした悲哀が
そっと私の体をつつむ時
ああ 静寂は思い出の使者
静寂は悲哀の使者

『かえで』は、秋に発行になった。発行のあと、顧問の先生を交えて合評会がある。次郎の詩は、その度ごとに、一人よがりの作品で、線が細い、もっとたくましさが必要なのではないか、もっと現実を凝視する目をもってほしいと批評された。次郎の作品は、上級生から見て、いつもけなされていた。それでも誰よりもまじめに会合に顔を出し、書くことをやめないのは、何より書くことが好きだったからだ。孤独な中から、一つ一つこねあげたような作品が、次郎の姿そのものであった。
 二年の秋になると、三年生が部活から手を引いて、次郎のところに部長の仕事がまわってきた。文を書くのが好きなだけの次郎には、予算のことで生徒会執行部にかけあったり、部員をあつめて、作品の批評会を開くようなことは、あまり得意ではなかった。おまけに部長になって真先に待っていた仕事は、機関誌『かえで』の広告とりの仕事だった。文芸部には、生徒会の予算がついてくるのだが、それだけでは印刷費をまかなうことはとてもできず、雑誌を買ってもらったり、一軒ずつ店をまわって広告をもらったりして、これを雑誌の印刷費にまわすことであった。この仕事は、みんながいやがり、それを新部長の次郎に押しつけた。次郎は仕方なしに、昨年の『かえで』をもって、ここに広告をのせている店をまわった。あいさつをしてはいってゆくと、はじめは客として応対していた店員も、広告取りとわかると、奥の店長のところまでつれていかれた。店長は、この前は、新聞部の人が来たといい、また演劇部の人が来たといい、同じ学校から、そんないろいろなクラブのつきあいはしていられないといった。三軒に一軒は断られた。断られて店から出るとき、金品をたかりにきた不良高校生のようにみじめな気持ちになった。
「このごろは、よくそんなことをいって、金をまきあげてゆく人がいるのでね」
とはっきりいう店もあった。なんのためにこんないやなことをやらねばならぬのだろう。作品を活字にして、本を出すことの裏面をのぞき見るような気持ちがした。
『かえで』十五号に、初めて九枚の小品を載せた。「弘君のこと」として、かつて一緒に川で泳いでいた弘が水に溺れ、村人たちに引きあげられるようすを生々しく書いた。中学三年の時、次郎自身が直接体験した水死事故だった。それから、次郎自身の生と死についての所感をのべた。次郎自身がまのあたりにした、あまりにも鮮烈な体験であった。
『かえで』四百部の印刷代金は、五万円で、うち二万円は、雑誌の売却と広告でまかなわれた。休み時間には各教室をまわって売り歩いた。
「こんなに高いもの、だれが買うもんか。それでも、高校生の恋愛小説でも載っているのなら別だが、くそおもしろくもない作品を並べたところで、売れると思ったら大まちがいいだよ」
といって露骨にいやみをいわれた。校内での販売に見切りをつけると、他校に売ろうということになって、顧問の先生に相談にいった。
「君達自身が相手校の生徒に会うのは、よくないよ。文芸部の顧問の先生に会うくらいならよいがね」
「どうしてもだめなのですか。私達は雑誌を買ってもらうだけでなしに、意見の交換もしたいのですが」 「実は、生徒指導の上で、いろいろと問題があるというので、学校の違う生徒同士の接触は禁止するという申し合わせがしてあるのだよ」
 次郎たちは、しぶしぶ引き下がって、市内の他の高校を手わけしてまわることにした。部長ということで、次郎と宏一の二人は、女子高校が割りあてられた。たとえ顧問の先生に会うだけにしても、女子校へゆくのははじめてのことであった。二人は、放課後すぐ出かけていった。二人が女子高校の正門近くにいったとき、ちょうど下校時刻にあたり、校門から女子高校生がぞろぞろとやってきた。こんな時間に、校門をうろうろしている男子高校生はなにものだろうとばかりに、二人は女子高校生の注視の的になった。次郎は、そのまま逃げて帰りたいと思った。生徒玄関から入ったらよいのか、正門からはいったらよいのか二人は迷いつつ、事務室で文芸部の顧問の先生を呼び出してもらった。
「たいして売れないかも知れませんよ。このごろ、うちの生徒も、あんまりこういうのに興味をもたないもんでね」
 その顧問の先生も気のりしないようすだった。そこで、次郎は、文芸部の窮状をくわしく説明して、こうつけ加えた。
「一冊でも二冊でもいいのです。このままだと来年は、こんな機関誌が発行できなくなる怖れがあります。なんとか助けると思ってお願いできませんか」
「あなたがたの事情はわかります。でも、そのあと始末をこちらにもって来られても困るんですがね」
「それはもちろんです。でも、こういうのに興味をもつ人が少しはいるでしょう。そういう人に買ってもらえたらと思うのです」
 次郎も必死だった。ここで断られては、元も子もなくなってしまうと思った。
「とりあえず、預からせてもらいますが、あまり期待しないで下さい」
「お願いします。ありがとうございました」
 二人は深々と頭を下げて事務室を後にした。帰りの道々、宏一がぽつんといった。
「もう、こんないやなことは、これでやめにしておこう。我々がみじめになるばかりだよ」
「たしかにつらいよ。でも、自分の好きな道を伸ばすには、これくらいの苦労はついてまわるのかも知れないよ」
 自分の文章を人から読んでもらうということは、生やさしいことではないのだということを、次郎は、思い知らされた。それから一週間後に、再び市内の高校に、雑誌の回収にまわったが、どこもほとんど売れなかった。進退きわまった部員たちは、一人千円ずつ、決して豊かでない高校生活の中から自己負担して、印刷屋の支払いをすませた。
『かえで』の来年の発行見通しは全くたたなかった。
 高校三年の夏休みも終わろうとする日、次郎の手元に一通の手紙が舞い込んだ。差し出し人は、次郎の未知の人であった。震える手で封を切ってみると、それは、同人雑誌の発刊案内と参加への誘いであった。N新聞社読者文芸欄の常連投稿者があつまって一つの同人雑誌を作ろうというものであった。このころ。N新聞社読者文芸欄には、次郎の投稿する「お母さんの童話」と「コント」「生活詩」といったものがあった。俳句や短歌の短詩型をのぞいて、投稿の際の字数の枠をとりはらって、自由に書こうという趣旨であった。
次郎は、その日のうちに参加申し込みをした。これに参加することで、一かどの文学者として世間に認められたような気がした。三枚の枠をこえて、ここで長い童話を書くことが彼の人生の大きな転機になるに違いないと思った。今まで、一人で書いてきたのに、これからは、同じ文章の仲間ができるのだ。いままで文章を通してしか知らなかった人と、直接顔をあわせ、人間として接することができるのだ。今まで友だちのいなかった次郎に、文を書くことを自分の心のはけ口とする友人ができるに違いないと思った。第一回の話し合いは、二学期がはじまって最初の日曜日が予定されていた。次郎には、その日の来るのが待ち遠しかった。その日を境に、自分の新しい人生が開けてゆくような気がした。
 その日、次郎は、朝七時半に家を出て、県都に向かった。バスと汽車をのりついで二時間半は優にかかった。次郎が県都にゆくのは、これがはじめてだった。このためにクツを新調し、ワイシャツも新しいのを着た。大きな旅行にでもゆくような気持ちだった。しかも、それは新しい同人雑誌の発刊という晴れがましい席に出かけてゆく心躍る旅行であった。
 車窓からは穂が出そろって、刈り入れを待つばかりとなった田園風景が開けていた。汽車は、その稲穂の中を泳ぐようにして県都に向かった。次郎の胸の奥底から激しい闘志のようなものが、次々と湧いてくるのを感じた。次郎の故郷の谷沿いに開けた狭い土地と違って、ここはどこまでも平野が続き、山は遠く霞んで見えた。次郎の闘志は、そうした平野やこれからゆく県都のビルの谷間に住む人への漠然とした闘志といってよかった。
 この会に出席する次郎の高校の文芸部二年の隆は、途中からのりこんだ。隆は、次郎と同じN新聞で、詩を投稿していたので、前もって、きょうの出席について話はついていた。
 N市についても、午後の会議までは、まだ時間があったので、二人で会場近くの食堂にはいった。何を注文していいのかおどおどしていた次郎にかわって、隆は、てきぱきとめん類を注文したので、次郎もそれと同じものにした。それが終わると、次郎のはじめて聞く冷たい飲物を隆は注文した。はじめて外食する次郎と違って、隆は、こういうことに手慣れているようすだった。舌のピリピリする緑色の飲みものを、ストローですすり終えると、開会二十分前に会場にのりこんだ。会場は、N新聞社二階の会議室であった。
 三十八名の出席者の中で、頭を丸く刈った学生服姿は、次郎と隆の二人だけだった。はじめに自己紹介があったが、紙上の作品はよく読んでいても、顔をあわせるのは初めてで、次郎にとっては、会う人会う人がおどろきだった。詩やコントを書いている人ははじめて名前を聞く人も多かった。他の出席者たちも次郎と同じ気持ちでいるらしく、名前が発表されるとほうといった驚きの声が期せずしてもれてきた。話し合いは、発起人の人たちが中心になって、同人誌の名前、発行回数、部数、会費、事務局、創刊号の発行日とすすめられていった。次郎はだまってきいているだけだったが、他の人の発言を一言もききもらすまいとして、発言者の方にちゃんと視線を向けていた。なによりも、枚数に制限がないというのが魅力だった。今まで三枚という限られた枚数の中で、いかにうまくテーマを書き込むかということに苦労していたのに、こんどは十分の長さで書き込むことができる。次郎には、書きたいテーマが次々と湧いてきた。その日は、暗くなってから家に帰った。しかし、胸の中は創刊号に書く自分の作品のことでいっぱいだった。次郎にとってその日は、十八年の生涯の中でもっともみちたりた日となった。
 学校では、三年生は、あらゆる生徒会活動から手を引いて、二年生にバトンを渡した。もちろん、文芸部も、次郎は部長を退き、二年生にうけつがれていた。卒業まであと半年、次郎自身の進路も真剣に考える時期にきていた。なんとかして、自分の文章を職業の中で生かせる道はないものかと考えていた。何としても一番いいのは、原稿を活字にして、読者に訴える新聞記者であった。しかし、大学に進学するには、次郎の家庭は、あまりに貧しすぎた。地元の国立大学は、学費は安いが、試験科目が多かった。彼の最も不得意とする数学も勉強しなければならなかった。東京の私立大学では、学費がかかりすぎた。そのころ国立大学の中でも、もっともはいりやすいとされた教育学部をねらうことにした。中学の国語の教師も、彼の魅力ある職業の一つであった。しかし、その学部に入るにも、彼の苦手とする英語と数学を勉強しなければならなかった。しかし、それも半年の苦労だと思った。大学に入りさえすれば、今まで以上に自由な時間をもつことができ、好きなように執筆できるであろう。つらいけれども、我慢しなければならないと思った。
 N新聞文芸欄投稿者が母体となった同人誌は、『山脈』と名づけられ、その年十二月に創刊号を出した。次郎はここに「おじいさんとふくろう」という童話を発表した。
 俊夫は、おじいさんといっしょに寝るのが楽しかった。おじいさんは、家の後ろで鳴くふくろうの鳴き声が「糊つけ干せい」というのだと教えてくれた。おじいさんは病気になり、俊夫はおじいさんとの楽しい日のことを思い出す。秋になると、おじいさんはそのままなくなり、おじいさんがいないと、ふくろうの声に耳を傾けるものはいない。俊夫は、夢の中でおじいさんとふくろうの両方に手を引かれて、赤トンボのとびかう空をのぼってゆく夢を見た。
 書いてみて、次郎には、老人の世界への憧れがあることに気づいた。この地上に、彼の生の何倍もの年月を刻みつけている老人の世界が、次郎には心魅かれた。同じ若い人たちと話し合うよりも、老人と話していた方が心が落ちついた。老人の心の中にぎっしりつまっている年月の重みに触れることが次郎の心を充たした。大学に入ることができたら、ますますこの老人の世界に入り込んでゆけると思った。そのためにも、今はどうしても大学に合格しなければならないと思った。
 次郎が高校を卒業して春休みの間に、N新聞社の「お母さんの童話」は、選者が交代した。二年間に、次郎の入選回数は四回、次郎は、この欄によって、書くことの喜びを教えられた。N新聞は、この投稿者交代の時に「選者の任を終えて」という選者の一文を掲載した。この中で、印象に残る投稿者名の一人として多くの投稿者と一緒に次郎の名もあった。思えば、次郎の作品創作の意欲は、この欄の、この選者とともに高められていったようなものだった。この欄によって次郎は、ものを書く喜びを身につけることになった。次郎は、この選者の一文を深い感慨をこめて読んだ。
 その年四月、次郎は、大学に入学することができた。次郎の受験勉強中に『山脈』の第二号は発行されたが、次郎は、ここに作品を載せなかった。ちょうど受験勉強の真最中だった。入学するとすぐ、「佐助地蔵」という九枚の童話を書いた。次郎としてははじめての長い作品であった。
 明治のはじめ、母にかわって道路工事に出ていた十五歳の佐助は、崩れてきた土砂の下敷きになって死に、村人たちは、その死をいたんで小さい石地蔵を建てた。しかし、長い年月がたって、いつのまにかこの地蔵の存在は、村人から忘れられてしまった。明日は、ここにブルドーザーが入って、整地作業が始まるという晩、佐助地蔵は、ここに建てられてから九十年の年月をふりかえり、いつのまにか村人に忘れ去られてしまった無念さに涙を流していた。そのとき弱々しい一匹のこおろぎが、佐助地蔵の胸のあたりまではい上がってきて、しみじみと話をする。こおろぎは、この胸にとまったまま死なせてほしいとたのんで永遠の眠りにつく。佐助地蔵は、明日は土の下に埋められるという運命にありながら、こおろぎの死を見とってやったことに満足する。心おきなくほろびの運命に身をまかせる決心をする。

 佐助地蔵は静かに目をつむりました。あちこちのくさむらからは、元気のよい虫達の声が聞こえました。佐助地蔵にはその声が、昔、このあたりで遊んでいた子供たちの声のような気がしました。
 美しい月の光は、草に埋もれた佐助地蔵と、そこにちいさく眠っているこおろぎ、そして遠くの村々の屋根を、まるで昼間のように照らしていました。

「佐助地蔵」の結びをこう書きおえた。滅びゆくものへの限りない愛惜を、この文にこめた。このころ、休みになると、村の老人たちを訪ねては、昔話をきくことが日課のようになっていた。今聞いて、文字に書きとめておかないと、昔から口から口へと伝えられた村人たちの心が、老人の死とともに滅びてゆく、次郎は、そのことに対して、だれから命じられたわけでもない使命感をもっていた。その使命感につき動かされるようにして、何人もの老人たちに会った。次郎と同じ若者たちが、見向きもしない古い世界に、次郎は若い情熱を注ぎこんでもいいと思った。
『童話集 あまがき』は、次郎の童話への訣別宣言といってよかった。今まで書いていた童話を一冊の本にまとめてみようと思ったのは、大学二年になってからであった。そして何より、あのころの選者の先生に、ぜひ序文を書いてもらいたいと思った。今まで、新聞に載った作品やら『山脈』に発表した作品やらまとめてみると、百枚近くになっていた。
乏しい学費をさいて、印刷費にあてた。八月にはいると、次郎の作品の選者だった著名な童話作家は、次のような序文をおくってきてくれた。

『あまがき』の作者、山本次郎君の原稿は、今も私の目のまえにはっきりうかんできます。「忘れた図画」がN新聞紙上で活字になったのは、昭和三十二年六月八日のことで、そのときの原稿は、高校一年十六歳とあったことも覚えています。その作風は、いわゆる生活作文に通じる素朴な実感のにじんだもので、筆者の十六歳らしい表情が、私にこのもしい印象を与えてくれました。いらい君は、童話投稿の熱心な常連のひとりで、つぎつぎと佳作を見せてくれました。
 創作童話の開拓者小川未明先生をうみ、また民話の発掘者水沢謙一氏を生んだ新潟の地に『あまがき』の作者が育ったのも、偶然ではないように思われます。童話文学の創造には作者個人の恵まれた資質とともに、それをとりまく民族の理想と夢が不可欠です。
山本君の少年の日の素朴で純真な記念碑に喜びをおくり、君のこれからの新しく力強い仕事に注目しています。

『あまがき』百部は、その年十月に発刊になった。三十八頁、B五判のタイプ印刷であった。この費用七八〇○円、このうち五十部は寄贈し、あと五十部を友人に売るつもりであった。少なくてもこの本は、百人の目に触れるはずであった。どのようにこの作品が人々に読まれるであろう。それを考えると胸がはずむのをおぼえた。黄色い表紙のうすいその本をなでながら、二十歳まで生きた一つの生の刻みとして、わが子のような喜びにみちていた。母親が、わが子を愛撫するように、その本をなでまわし、頁をめくり、よみかえした。自分の本という実感が迫った。故郷の小・中学校、『山脈』の仲間、高校の友人などに送ってやるつもりだった。それぞれの場所で、この本は、次郎の姿を頭の中に浮かべながら、読まれるに違いない。
 何日かして、次郎の手元に、たくさんの礼状が届いた。どれも、次郎の本への激励の言葉にうまっていた。もう童話を書かないということを惜しむ手紙もあった。この一冊の本を出すことによって、次郎は、きっぱりと童話への訣別ができたような気がした。本を出版するということは、これほどにも喜びに満ちたものであったのか。将来、次々と自分の著書をもつことができたら、どんなにすばらしいであろうかと思った。

 
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