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「心までは萎えず」 | 第三小説集『さつきの花』

心までは萎えずworks

心までは萎えず 1

 海の見える小高い丘に、国立K療養所が建っていた。この療養所のまわりには、松林が続き、その林の切れるところから、白い砂浜となり、日本海の青い海が続いていた。
 この療養所の玄関に一台の乗用車がとまり、両親と男の子が降り立った。男の子は、後部座席から、母親の介助をうけて、玄関のコンクリートの上に降り立った。昭和四十二年七月、岬洋介は、あと一週間後に、七歳の誕生日を控えていた。
「さあついたぞ」
父の恵三は、洋介の歩くのを促した。母のナミは、洋介の後にぴったりついて、洋介にいつでも手助けできるように歩いた。洋介はかろうじて一人で歩いた。腹をつき出して、大きく肩が揺れ、後ろに反るようにして歩いた。
 小学一年の洋介は、ここに入院のためにやってきた。病名は、進行性筋ジストロフィー症。医学がこれほどまでに進歩した現在においても、この病気は、原因も治療法もわからず、病状は進行するのみで、二十歳前後の短い命しか与えられていない。小学校一年の洋介は、その病名の深い意味を、医師や両親から説明を受けておらず、病気であれば、いつか回復して、ここを退院する日が必ず来ることを信じていた。両親でさえ、つい一カ月前に、大学病院でこの病名を告げられたばかりであった。このあと、最愛の息子の体が、どう変わってゆくのか、まるでわからなかった。確実なことは、この病が癒えてこの病院から退院することは、決してなく、ひょっとしたら、この病院が、洋介の死に場所になるかも知れないということである。今まで、七年間、親として、この子に何をしてやれたというのか、この日を境に、この療養所の中で、洋介は一人で生きていかなければならないのだ。恵三もナミも、この一カ月間泣き通した。そのうえで、この決断をしたのである。この決断をするまで、両親は、どれほど苦しんだことであろう。とりわけ、ナミは、自分が血を分けたこの洋介の病気を知って、奈落の底につき落とされるような感じであった。だれも生みたくて、こんな病気を持つ子を生んだわけでないのに、夫や夫の両親に対して、自分の責任のように思えて、心の中で詫びていた。
 病院の玄関に入って、五、六歩歩いたところで、洋介は、板の継ぎ目のわずかな段差につまずいてころんだ。ほんのわずかな衝撃にも、洋介は、すぐころんだ。健康な人なら、何ともない段差が、洋介の姿勢を崩してしまう。マリオネットの糸が切られたように洋介は、尻もちをつく。それから立ち上がるまでの長い苦労、四つんばいになり、右手で足首をつかみ、左手を大きく振ってバランスをとり、さらに両手を、ひざに支えてようやく立ち上がる、その苦労にももう慣れてしまった。普通の人なら、何とも抵抗なしに立つというのに、この病気は、立つための躯幹や腰まわりの筋肉の萎縮によって、「立つ」という行為が困難になってくるのである。病状が進行してゆくにつれて、この立つ、歩くという、人間にとってもっとも基本的な運動機能さえも失われてゆくということを、洋介はまだ知らなかった。
 洋介たちがはいってゆくと、待合室にいた患者達は、珍しいものを見るように、洋介の方に目を向けた。洋介親子にとっての、この視線は、外へ出るたびに、どこにもある視線である。何か珍しい動物でも見るかのように、洋介を見る。どんな気持ちでいるのであろう。ナミが、出来るだけ洋介を家から出さないでいるのも、この外部の人たちの射すような視線がこわかったからであった。しかし、その視線にも、もう慣れてきた。
 洋介が、K療養所に入所する筋ジストロフィー患者の第一号であった。この療養所は、今まで、結核患者のための施設であった。市街地から離れた、小高い丘にポツンと建てられているのも、空気のきれいな所といいつつ、その実伝染病の感染を怖れてのためだったのであろう。その結核患者が、急速に減少してゆくにつれて、腎臓や心臓のような慢性疾患の人たちを収容し、さらに洋介のような筋ジス患者の受け入れも決定したのである。すべて国の方針だった。
 洋介が入院した時、筋ジス専門病棟は、洋介の他に誰も患者はいなかった。これから、次々と入院してくる予定ということであった。木製のベッドの脇に、整理ダンスが一つポツンとあるだけで、他に何もなかった。洋介は、ナミに手伝ってもらって、家からもってきたものを整理していれた。家でお別れパーティをしたとき、友人からプレゼントされたプラモデル、犬の縫いぐるみ、時計、カバン、勉強道具、マンガ本をしまいこむと、たちまち整理はおわってしまった。その整理をしながら、ナミはまた泣いていた。 「ぼく、ここで、これからずっと一人で寝たり、起きたり、できるのかな」
洋介はいった。
「洋介は、賢い子だもん。なんでもできるさ。看護婦さんだって、やさしくしてくれるし、そのうち、きっとよくなって、母さんが迎えにくるからね……」
 ナミは、泣き声で、ぎゅっと洋介を抱きしめた。そして、病院の昼食となった。
「うわー、おいしそうだな。これみんな食べていいの」
 運ばれてきた食事を見て、洋介は歓声をあげた。えびの天ぷら、野菜の煮もの、アルミの食器のごはんも次々に箸をつけて、みんなきれいにたいらげた。洋介には、もう洋介の人生がはじまっているのだ。恵三は、その日のうちに帰宅し、二、三日、洋介と一緒にいたナミも家へ帰っていった。洋介は、広い病棟に一人残された。

 
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