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「心までは萎えず」 | 第三小説集『さつきの花』

心までは萎えずworks

心までは萎えず 2

 洋介の体に異常が現れたのは、つい四カ月くらい前のことであった。今まで、友達と元気に走り回っていたのに、歩いていてもよく転ぶようになり、走るのも遅くなった。どこかぶつかったとか、足をいためたとか、しきりに洋介に聞いでみるのだが、いっこうはかばかしい返事はかえってこない。恵三に相談しても、あんまり気にしていないふうである。
一月、二月とすぎるうち、洋介は、あまり友達とも遊ばなくなった。
「洋ちゃん、このごろ友達とあまり遊ばないみたいだけど……」
「ぼく、このごろ、体がなんだかとても疲れて、友達と遊べなくなったんだよ。かけっこもついていけないし」
と洋介はいう。
「おとうさん、洋介の足、どうしたんだろうね。歩き方がとても変なのよ」
ナミは、恵三にいう。恵三は、洋介をうながして、歩かせてみた。洋介は、立ちあがるのだが、体がぎくしゃくして、不恰好である。歩き方も、両足が爪先だって、後ろに反りかえり、体を揺するようにして歩く。そのようすを見て、ナミと恵三は、目を見合わせた。洋介の体が、何か不気味な病気に冒されているような気がした。
「洋ちゃん、明日、おかあちゃんと、お医者さんにいってこようよ。洋ちゃんの体、病気みたい。早く診てもらって、治してもらおうよ」
とナミは、話すと、洋介もうなずいた。洋介は、幼いながらも、自分の体の異常に気づいていた。友だちと遊んでいても、元気に動けなく、勢い絵を描いたりして、積木をしたりしているものだから、いつもポツンと、置き去りになることが多かった。子供心にも、漠然と、自分の体が病気になっているのだと感じていた。医者にみてもらいさえすれば、元気になり、またみんなと遊べるのだと思っていた。
 翌日、ナミは、K市内の小児科医院に、洋介をつれていった。一通りの診察を終えたあと、ナミは、
「先生、どうなんでしょう、この子の体は」
とたずねた。医師は、聴診器をはずしながら、
「うーん、」
とうなるような声を発した。そしてしばらく首をかしげたまま、無言の時間が過ぎた。
「どこも悪いところはないから、そう心配することはないと思うけど……。一度、どこか大きな病院で、診てもらった方がいいかも知れませんねえ……。大学病院の神経内科に私の知っている先生がいるから、紹介状を書いてやりましょう。そこでよく診てもらったらいいでしよう」
「神経内科ですか、どうしてそんなところに」
「念のためですよ」
「そうですか……。よろしくお願いします」
 ナミは、まだ聞きたいと思ったが、そのあとの質問をためらった。ますます洋介の診断が悪くなるような気がしたのだ。医師が、どこも悪いところがないというのだから、安心していいはずなのに、医師の一瞬の迷いにナミは、敏感に反応した。洋介の体について、医師は、まだ重大な診断を隠しているのではないか。神経内科ということも気になった。足や骨に異常があるというなら、外科でいいはずだ。洋介の体に脳や神経に異常がおこっているのに、医師は、それを告げず、大学病院にいって聞くようにという意味ではなかったのか。医院を出ると、洋介が聞いた。
「ぼくの体、病気なの? 治るの」
「ううん、なんでもないって、きっと治るよ。でもね、もう一度、大学病院に行って、もっとくわしい検査を受けた方がいいって」
「ふうん、早く治るんなら、大きな病院にいこう」
洋介はいった。この子は、この子なりに、心をいためているのだな。ナミは思った。こんな小さな子が、自分の病気を心配するなんて、ナミは、洋介がいじらしく、かわいそうだった。
 五日後に、ナミは、県都にある大学病院に洋介を連れていった。入院して検査するというので、しばらく洋介と同じ病室に洋介も泊まった。採血や尿の検査、心電図のありふれたものから、筋電図の検査のように、肩や太いももに、針をさしこんでの苦しい検査もあって、洋介は油汗をにじませて、悲鳴をあげた。それでも、泣き声を上げたり、検査を拒否したりすることはなく、小さい体に、じっと耐えぬいた。ナミは、洋介がいとおしかった。
「こんな小さな子に、こんなむごい検査をするなんて、いったい、この子の体に何があるというのだろう」
 ナミは、胸の中に、重い鉛をぶちこまれたような気持ちだった。洋介が、重い病気にかかっていたらどうしよう。その瞬間に耐えられるのだろうかとも思った。
 検査がおわり、入院したまま、ナミは医師の診断を待っていた。何日かして担当医師によばれた。
「洋介君の検査の結果が出ました」
「それで、どんな具合なのでしょうか」
ナミは、身を乗り出すようにして、医師の次のことばを待った。医師は、カルテを見て、ナミから視線を反らすようにして、思い切ったように口早に、
「進行性筋ジストロフィー症です」
といった。
「はあ、進行性……何といわれましたか」
ナミは、聞きかえした。その病名は、ナミが初めて耳にすることばであった。
「進行性筋ジストロフィーに冒されています。わかりやすくいいますと、筋肉に栄養がゆきわたらず、筋肉がおとろえてゆく病気です。今は歩けても、まもなく車椅子の生活にうつり、最後には、ベッドで寝たきりになり、大半は、二十歳くらいで生涯を終えるひとが多いのです。多くの医師が、この病気の究明に全力をあげていますが、残念ながら、この病気の原因はいまだにわからず、したがって治療法もありません。心臓や、肺の筋肉も冒されて、心不全や、呼吸困難で死亡する場合が多いのです」
「手術とか、薬とか、全くないんですか」
「残念ながら、現代の医学では、この病気に効果的な手術や薬はなく、現代の難病の一つといわれています」
 ナミは、一瞬、全身が硬直し、ことばが出なかった。足が不自由で、立ち居が不自由なだけで、どこも痛みのない洋介の体が、そんなむつかしい病気に冒されていて、じわじわと症状が進行し、若いうちに命を失うなんて。それが人口二万人に一人という割合で発生するというのだ。なぜわが家にこの病気がふりかかってきたのか。ことわざに「親の因果が子に報い」というのがあるが、親がどんな悪いことをしたというのだ。こんなに医学の進歩した現代にあって、原因も、治療法もわからない病気なんて、あっていいものだろうか。
 大学病院に行きさえしたら、洋介の病名ははっきりし、治療法もわかるはずだと思ってやってきたのに、それは絶望的な診断であった。ナミには、心の中にわずかに残っていた希望が、根こそぎえぐられたような気持ちだった。何より、洋介にどう話したらよいのだろうか。今なら隠しおおせることもできよう。しかし、いつか洋介自身で、自分の病名を知る日がやってくる。その前に、親として、責任をもって子に病名を告げてやりたい。愛するわが子に、不治の病を告げなければならないとは。神は、なんと残酷なことを、この親に課すのであろうか。ナミもまた、夫恵三とともに、重い十字架を背負って、これから先、何年も生きていかなければならないのだ。
 病室にもどると、洋介はおらず、談話室のテレビマンガを見ていた。窓の外は、明るい夏の日ざしが街いっぱいにあふれ、その中を白い半袖シャツを着た人達が忙しく行き交うのが見えた。街路樹に植えられたプラタナスの葉が風に揺れ、車道は、色とりどりの車であふれていた。ナミ、洋介母子にとって、こんなにも重大に医師の絶望的な宣告を受けた日というのに、窓の外には、ナミの暗闇とはうらはらに、人々は嬉々として、おのが生を謳歌している。それがナミには、信じられなかった。
 病院の早い夕飯を終えたあと、ナミは、洋介を促して六階の屋上にあがった。
「洋ちゃん、屋上からの街の夜景がきれいよ、見にいこう」
というと、洋介もついてきた。
 エレベーターで、屋上にあがると、薄暮の街なみが眼下に広がっていた。あちこちのネオンが点灯をはじめ、その下を家路を急ぐ人々の群れがあった。買物の袋を自転車の荷籠につけてゆく人があるかと思えば、白いセーラー服の高校生の一段が笑いながら通りすぎてゆくのも見えた。あの人たちは、家に帰れば、明るい家庭の団らんが待っている。暖かい夕餉の食卓で、一日の談笑が続き、部屋の中にはテレビの音が大きく響いているに違いない。それなのに、この洋介は、この難病をかかえて生きてゆかねばならぬ。このわが家に笑い声の出る日はあるのだろうか。まだ、恵三には、電話していない。恵三が知ったら、どういうだろう。この洋介を道づれに、このまま屋上からとび降りてしまったらどうだろう。屋上の縁には、危険防止の金網がはってあるが、決して越えられない高さではない。洋介の病状がますます進行してゆくのを、親は、何もできずに見ていることなんて、とても堪えられない。いっそ、親子ともども、ここからとびおりてしまおう。恵三は、ひとりで生きていけるだろう。ナミは、しきりにそう考えた。
「おかあさん、いつまでここにいるの。ぼく、もう部屋に帰りたいよう」
 いつまでもぼんやりと屋上の手すりに寄りかかっているナミに向かって、洋介が声をかけた。洋介の声に、ナミはわれに返った。洋介の声が、その時のナミには、神の声のように聞こえた。洋介だって、ちゃんと生きる権利を持っているのだ。たとえ、短い人生であっても、それを親が勝手に奪うことはできない。短い人生であればあるほど、親として十分生かしてやらねばならないのではないか。洋介の病気を、代わることのできない親であれば、この子の手足となって、親子ともども生きていかねば、だれがこの子を守ってやれよう。
「洋ちゃん、ごめんね。部屋に帰ろうか」
ナミは、こんど洋介を背負って階段を降りはじめた。洋介の体温が衣服を通して、ナミの体に伝わってきた。一段一段たどたどしい足どりでゆっくりとおりてゆくと、ナミの額に汗がにじんできた。洋介の一生で、何度こうして、背負うことがあろう。
「おかあさん、洋ちゃん重たいか。ごめんね、歩けなくて」
 背中の洋介がいった。
「なんの、なんの、洋ちゃん、かあさんは、ちっとも重くないよ。かあさんもがんばるから、洋ちゃんもがんばろうね」
ナミは、自分にそういって、自分自身をはげましていた。

 
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