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「さつきの花」 | 第三小説集『さつきの花』

さつきの花works

さつきの花 1

 昭和五十八年五月十九日の午後のことだった。新潟のMEさんから、私の勤め先の学校へ電話があった。塩沢町のS氏がなくなったという連絡があったが、どうしても都合がつかぬので、明日の葬式に出てくれぬかということであった。あのS氏がとうとうなくなったのか、とうとうS氏とは和解することなしに逝ってしまわれた。S氏の訃報に接した時、そのことが真先に私の胸を衝いた。こだわりなしに私の方から近づいていったら、S氏は心を割って話してくれたにちがいない。それをしようとしなかった自らの小心が悔やまれてならなかった。
 S氏は、名著『北越雪譜』の著者鈴木牧之の四代あとの末裔にあたり、塩沢町長も務めた町の名士のひとりである。昭和三十六年には、牧之資料のすべてを、町に寄贈し、今日の鈴木牧之記念館の基礎を作った。今年の共通一次試験国語問題の「諸国畸人伝」の一節では、このS氏が、石川淳に一枚の短冊をおくる場面が載っている。
 昭和四十四年八月二十七日、塩沢町では、牧之没後二百年祭が催され、町役場の前庭に「北越雪譜之碑」が建立された。この年、野島出版から復刻版の『北越雪譜』が出版され、さらに、ME氏・IK氏とともに仕事がすすめられていた『校註北越雪譜』の出版を目前にして、私も招かれてこの記念祭に出席し、ここではじめてS氏に会った。祝典のあとの祝賀会の席で、S氏は、私ごときものにまで酒をつぎにこられ、お礼の言葉を述べた。そのころ東京に在住されていたS氏の顔は、始終ほころびがちで、皆さんのおかげで、牧之もこれだけ世に広まることができたといわれた。自分たちのやっている仕事が、地元塩沢町の人たちや、子孫の人たちに感謝されていることを知って、私もいつの間に思いがけず酒がすすんだ。
 二回目に、S氏に会ったのは、四十八年七月、新潟日報の企画「文化風土をさぐる――南魚沼」を担当することになり、日報の記者と一緒に、鈴木家を訪ねた時だった。突然の訪問ではあったが、大へん歓迎され、かつての広い邸宅の跡を案内してもらった。塩沢小学校わきの広い土地が鈴木家のものであった。その二年前中風を患って、足が不自由であったが、私の前に立って、懸命に歩く姿に、偉大な先祖をもつ誇りのようなものを感じていた。この日のS氏は饒舌で、私の質問以外のことまで話した。しきりに家にあがって休んでゆくようすすめられたが、この日はまだ他をまわる予定があり、後の訪問を約束して別れた。
 そのころ、中央公論社で、牧之全集の企画がすすんでいた。塩沢町に、中央公論社のT編集長と書籍編集局のYさんがやってきて、編集を担当するME氏・IK氏と私、それに地元の牧之顕彰会のHK・ISの両氏が出席した。三人のメンバーは、かつて野島出版の『校註北越雪譜』の編集にたずさわった人たちであった。
 この席で、HKさんから、S氏が全集の中に遺書を収載することに反対していると伝えられた。
 牧之の遺書は、鈴木家の分家、岩木屋SYさん宅に残されていた。従来この書は、門外不出の書として、その全文を読破した人はいなかった。私は、四十三年ころから、岩木屋に何度か足を運び、ほぼ全文を原稿化していた。牧之全集と銘うって発行されるものに、もし、この遺書が欠落すれば、全集としての価値は半減するだろうというのが、出席した人たちの一致した意見であった。S氏自身も、この書の刊行には反対であるが、しかし、遺書そのものは、すでに自分の所有しているものではないし、人の家のものまで私が差し止める理由はないと話されていたという。一同は、S氏の反対の真意をつかみかねていた。この一言によって、S氏がこの公開に暗黙の了解を与えたものと受け取っていた。遺書は、牧之の聟勘右衛門への愚痴と恨みが中心となっていた。親戚の平野屋、岩木屋、吉野屋、勘右衛門の四人の他、「他見無用」とされていた。謹厳実直な一言居士といった牧之の性格は、ここにきて今まで見せなかった面を露わにした。己に厳しく、人に要求の多かった牧之も、身内を律することに苦労した。あの牧之にも、こんな一面があったのか、それは人間牧之を知る上で、きわめて興味ある文章だった。S氏は、この書の内容をどのように理解しているのであろう。この公刊によって鈴木家の威信に傷つくことを怖れているとしたら、杞憂というべきであろう。
 この遺書をもとに「遺書にみる晩年の牧之像――老骨に刻む我執と孤独」という一文を『北方文学』16号に載せたのは、翌四十九年八月のことであった。私は、この一文の冒頭で、S氏が遺書の公刊に同意されたことに感謝のことばを述べ、この一部をS氏に贈った。ここに、内容を紹介するとともに、S氏が公刊によって鈴木家の恥部の露出を怖れていることが、杞憂にすぎないことを納得してもらいたかった。それを密かに期待する気持ちがあった。ところが、折り返し、S氏から、遺書の公刊に同意したおぼえはない、だれから同意したということをきいたのかと激しい抗議が来た。私は、牧之の遺書が決して心配されるような内容ではなく、没後百四十年もすぎようとしている今、牧之の人間像を知るすばらしい資料であり、牧之研究の進展のために寄与すること大なるものがあるのでなんとか公刊に同意してもらえないかといった内容の手紙を送って、S氏の翻意を促した。その中で、私は生意気にも、牧之は、すでに鈴木家の枠を離れて、郷土先賢の人物となり、その書かれたものは、郷土だけでなく、新潟県にとっての貴重な文化遺産でもあるから、公刊に同意してほしい旨を書きおくった。
 しかし、私の願いは空しく、S氏は、次のような「申入れ書」を書留で送りつけてきた。

 申入れ書

 昭和四十九年八月一日発行、『北方文学』十六号に、貴殿発表の「遺書にみる晩年の牧之像」の二頁上段に、「この書は牧之の玄孫にあたるS氏の承諾を得て、こんどはじめて活字化されることになった」の一文は事実と全く相違し、私は遺書の発表、活字化には飽くまで不賛成、絶対反対なのですから、適当な方法で取り消しを要求します。尚同時に、「私の承諾を得て」との根拠も同時に発表して頂きたい。
右申し入れます。
 昭和四十九年九月二十六日
                             S

 TM殿
二伸、この件に関し、折角御来訪されてもお会いする意志はありませんから御了承の程を。

 
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