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「さつきの花」 | 第三小説集『さつきの花』

さつきの花works

さつきの花 2

 私は、S氏の気迫に押され、なすすべを知らなかった。ひたすら、自分の不明をわび、陳謝につとめるほかはなかった。S氏の抗議は、同じ調子で中央公論にもいったらしい。牧之全集の編集者の一人である私が、こういう論文を発表することは、中央公論社も黙認しているのではないかといった内容のものであったようだ。これは後になって中公のY氏からきいた。私は、ここでも自分のやった行為が、いろいろなところに迷惑をかけていることを知り、わびるほかなかった。
 この年十月十日、中央公論のT編集長とY氏、執筆者側の三人で新潟に集まり、その席で私は事情説明をさせられるはめになった。前日、中央公論の二人は、塩沢でS氏に会ってきたという。私の一文が、S氏の本意をふみにじり、S氏と中央公論社とが、せっかく築きあげてきた信頼関係を、私の一文がぶちこわし、牧之全集出版の企画そのものが一頓挫するはめになったといわれた。さらにそれは、執筆者代表としてのME氏の責任問題にも発展したという。ME氏も、S氏の承諾は、中央公論に対してであり、TM個人に対してでは決してない、ここを混同してはならないといわれた。私がたいして気にもとめずに発表した一文が、これほど多くの人々に迷惑をかけ、結果的には、牧之全集の企画そのものをだめにしてしまうほどのものであるとは、全く予想もつかないことであった。これもすべて、S氏の強硬な態度がもとになっていた。そのS氏の真意が私にははかりかねていた。その真意は、直接S氏に会って聞き質してみるのが一番よいのだが、S氏は、私と会うことを頑なに拒んでいる。私は、人の心を理解することのむつかしさをつくづく思い知らされた。一日中、重苦しく、つらい日となった。
 そのころ、私は、牧之の妻についての論文を執筆していた。妻を道具のようにして次々と離縁してゆく牧之、その牧之の側から原因を考えようとするものであった。しかし、これもまたS氏の感情を刺激する怖れがあった。五十枚の原稿をコピーして、MI氏と中央公論に送って、発表の伺いをたてざるをえなかった。その折り、次のようなコメントをのせた。

  訂正とおわび

  『北方文学』16号に発表した拙稿「遺書にみる晩年の牧之像」の文章中、「この書(遺書)は、牧之の玄孫にあたるS氏の承諾を得て、今度はじめて活字化されることになった」
の部分は、牧之の「遺書」公刊に反対の立場におられるS氏の真意にそむいた、私の一方的誤認から書かれた文であります。ここに同氏に衷心よりおわび申し上げ、この部分を削除いたします。
 また、前号の拙稿は、本来、現在進行中の「鈴木牧之全集」が刊行された後に発表すべきものであったことを反省し、S氏ならびに、関係の方々に多大なご迷惑をおかけいたしましたことを深くおわび申し上げます。
 昭和四十九年十月
                               TM

 
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