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「さつきの花」 | 第三小説集『さつきの花』

さつきの花works

さつきの花 3

 このコメントも、中央公論のY氏、執筆代表のME氏に見せた。しかし、このコメントの載った「北方文学」17号は、S氏には送らなかった。おわびは十分しておいたから、また送ることによってS氏を刺激してはというME氏の指示があったからである。
 同じ年十一月、私は、野島出版の『越佐文学散歩』の出版記念パーティに出席した。帰りの汽車で、塩沢の書店ISさんと一緒になった。その折、ISさんは、私に、S氏の怒りのようすを伝えた。「Sさんも少し依怙地のところがある人でね」といいながら、Sさんは、昔から、大きな造酒屋だったこと、その酒蔵の酒が二年続けて、昭和のはじめ腐敗してしまって大損をうけたことを話した。牧之が、多くの江戸文人と交流があったため、鈴木家には、昔から、多くの著名人の筆跡が残っていた。昭和三年八月に、その鈴木家のうりたてがあり、その時には、東京神田の一誠堂といった著名な書店までやってきたと話した。S氏は、塩沢が石打、中之島を合併する以前の塩沢町長を二期半やって、東京のマンションに暮らしていたという。きまった仕事をもたず、株の売買で生計をたてていたと話した。S氏は、一時期、家に残った資料を売って暮らしをたてていた。後に塩沢町に寄贈された牧之資料には、切り取られたり、剥がされたりした部分が多くあった。当時著名な江戸の書家や画家が寄せた筆跡を張りつけた張交屏風が残っているが、その剥ぎ取られた箇所には、S氏の印がおされている。それは、S氏自身が、はがして売却してしまったという証明にもなった。書簡類も五巻の巻物に仕立てられているが、ここも随所に切り取られた箇所があり、私は、別のところでこの切り取られたと思われる牧之家の書簡を見たことがあった。当時、牧之といった人物が、これほど多くの人に注目されておらず、牧之の書いたものより、牧之に寄せた著名人の筆跡がもてはやされたものであろう。おそらく、こうして牧之資料を切り売りしたのはS氏自身であったに違いない。岩波文庫で『北越雪譜』が出た頃であろうか、中谷宇吉郎、真山青果、相馬御風といった人たちが昭和にはいってさかんに鈴木家に出入りしていたという。そういった人たちの著作の中に牧之について触れた箇所がある。この人たちが、牧之のどこに魅かれていたのか、牧之の資料は、いつどのようにして、鈴木家から出ていったのか、S氏に会って、聞き質してみたいことは、無数にあった。五十年十月、S氏に面会を請うたが、S氏は面会を断ってきた。S氏と和解しないまま、むなしく年月だけは過ぎ去っていった。五十六年八月、私は『北越雪譜の思想』の出版にあたって、牧之の遺書についての論文を収載したいので、おゆるし願えないだろうかと許可を請うた。しかし、S氏は、短い文面で、不許可を通知してきた。例のごとく理由は記されていなかった。この稿は著書に収録されなかった。
 この年、塩沢では、牧之没後百四十年忌の法要がいとなまれた。法要のあとのお斎の席で、離れていたが、S氏に挨拶にいった。S氏は、東京で中風になり、階段の上り下りが苦痛だということで、四十八年ころから、塩沢に帰って、婦人と二人で暮らしていた。私が名前をいうと、S氏のことばは「わがままばかり申し上げてすみません」というものであった。私への苦言や抗議が出てくるものと思って、びくびくしていたのに、S氏のこのことばは全く思いがけないことであった。私は「いいえ、どういたしまして」といった。
短い会話だった。S氏が自分のことを「わがまま」といったのは、自分の依怙地の性格を指していったのだろうか。牧之の遺書公刊に反対する自分の行為に自省をこめていったことばであったのであろうか。それが、私にとって、S氏の生前最後のことばになってしまった。

 
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