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「船頭福沢熊次翁聞書」 | 第三小説集『さつきの花』

船頭福沢熊次翁聞書works

船頭福沢熊次翁聞書 1

 わたしの家は、この秋(昭和六十三年)小国町小栗山の中曾根橋の工事のためこわされましたが、小栗山側の渋海川の川岸にポツンと建っていました。わたしも年をとってきたので、長岡市上除の長男の家に移ってきたのです。私の家は、森光の新光寺の檀家で、十代前までさかのぼることが出来ますが、代々小栗山と太郎丸野田とを結ぶ、川船の船頭をして生計をたてていました。
 父の名は福松といい、明治九年の生まれで、七十二歳で死にました。母は、スイといい、大正八年、当時流行した悪性の感冒で死にました。四十歳ぐらいだったと思います。
 わたしは、熊次という名のように、次男でしたが、兄が十七歳で死んだため、この家を継ぐことになったのです。明治三十七年十月十九日の生まれです。満でいえば、八十四歳ということになります。
 家に入ることになった二十歳までの間に、いろいろな仕事をやってみました。もともと一つの所に、長く続けることが嫌だったのかも知れません。それだけ若かったせいもあるでしょう。
 小学校のころ勉強が嫌いで、せっかく学校へ通わせてもらったのに、字も習わず暴れていて母親に嘆かれたものです。
 学校を終えて、初めていったのは、東京向島のエボナイト工場でした。黒い電話機や、黒い昔の万年筆を作る工場です。せっかく就職したのに、夏、はしかを病み、これが重くて、二カ月も寝てしまい、なおったら、耳が聞こえなくなり、また治療に一カ月、とうとうそこがいやになってしまいました。十三歳の、今の中学生の歳です。でも、三年間の年期で、前金をもらっているので、勝手にやめることが出来ず、気が狂ったまねをして、やっとやめさせてもらいました。家に帰ってきて、次にいったところが、群馬県安中の酒屋でした。酒をつくったり、売ったり両方しているところでした。わたしは、その店の方の仕事でお得意先を回って酒を配って歩いたり、空樽を回収する仕事でした。仕事は楽だったのですが、酒屋は、朝が早く、四時には、おこされるのです。それで、いやになってしまい、三カ月くらいして、集金袋や帳面をお得意様に預かってもらって、ある日、突然家に帰ってしまったのです。手元に一円二十五銭しか小遣いはなく、柏崎まで切符を買ったら、手元に五銭しか残りません。柏崎へ夜中一時ころ着き、ホームに寝ていました。柏崎の親戚から、翌朝、ワラジをもらって、田島峠を歩いて帰りました。
 次にいったところが、群馬県桐生の機屋でした。上毛染色株式会社という会社で、当時桐生で二番目に大きい会社で、二千五百人も働いていました。捺染染めという仕事です。一年もいると、もう仕事を覚えてしまい、もっといい金になるところへということで、同じ桐生の別会社へ移りました。こんどは、小僧ではなく、職工として働いたので、前より金になりました。前の会社では、三年年期のところを無断でやめたので、職工係の人がやってきて、年期をつとめない分の金を返すようにいわれました。働いて返すといってようやく話がつきましたが、とうとう取りにきませんでした。
 しかし、ここも一年と続かず、渋川の蚕飼いにいきました。はじめは、小さい百姓家で、タメ汲み(人糞運搬)ばかりさせられたので、これは約束が違うと、周旋屋へ文句をいったら、こんどは、二十人くらい人を使っている種屋(蚕種)に紹介してくれました。でも、ここも、一蚕おやして、一カ月くらいでやめました。
 そのあと、高崎の駅前の周旋屋に一週間ぐらい泊まって、いい仕事を待っていたのです。それが、思いもかけない監獄部屋の仕事だったのです。監獄部屋なんていっても、わからんでしょうが、発電所工事の人夫小屋なのですが、ここにはいったら最後、いつも監視人がいて、絶対出してもらえないという恐ろしい仕事場でした。大丸組というのですが、福島県猪苗代湖近くのダム工事でした。周旋屋はわかっているのですが、組の人とグルになっているので、仕事のことは私らに教えないのです。三十人一緒に入ったのです。途中までいったら、監獄部屋とわかって、大の男がオイオイ泣き出す人もいましたが、もう逃げられません。見張りがいつもついていますから、逃げられないのです。行ったところは、学校の体育館のような、十間の三十間くらいの大部屋に、二、三百人が寝泊まりしているのです。そこは、入口は、三尺のものが一つしかないのです。仕事にゆくときは、少人数に分かれ、十人の組では三人、五人の組では二人のタチンボという監視人がつききりでした。食べ物は、よかったのですが、金はくれないで、五十銭の切符でした。外から指定の業者が、まんじゅうやおこしを売りに来るのです。それも高さ十五センチ、幅わずか二十センチの窓から品物と切符を交換するだけです。当時のセメン樽は、ビール樽のような形で、四十八貫目のものでした。樽があくと、二ツ輪切りにして、砂利を入れて運ぶのです。ちょうど昔の佐渡金山の人夫と同じです。足尾銅山の古川市兵衛なども、こうして金をためたのです。当時のダム工事の現場は、こうした監獄部屋がいくつもあったのです。当時の政府も、黙認していたのです。一つの仕事がおわるまでは、絶対に帰さないのです。毎日のように逃げる人が出るのですが、すぐつかまってしまうのです。まわりは、田んぼですし、部屋のぐるり一、二里には、通達がいっており、逃げた人は、すぐ通報されるのです。つかまるとみんなの見ている前で、棒頭が四、五人で竹の棒でたたきつけるのです。殺されてもなんでもいいのです。死ぬと、セメント樽につめて埋められてしまいます。家の人へは、行方不明と知らせればいいのです。小栗山でも、このダム現場で殺されたという通知の来た人がいましたが、恐ろしくて、家の人は、もらいさげにゆけず、ヨスケドンの人が、軍服着てもらいさげに行ったことがあります。病気になった人は、ムシロに寝せ、工事現場までつれていくのです。今も猪苗代湖へゆく途中、ダムがいくつもありますが、この土手の下には、人間が何人も埋められているのです。こんなところにいたらいつ殺されるかわからないと思い、何とかして逃げ出せないかと思案をめぐらしました。仕事について一週間がたったころ、夜番にまわされたのです。コンクリ打ちは、夜も仕事があって、もっこで、バラスを運び、上の方ヘウインチであげる仕事でした。棒頭は、二人つき、土方は三人で仕事していました。二人の棒頭の一人を倒せば、あと一人は、残った一人の土方につくので、追ってこれないと考えたのです。棒頭がひょいと横を向いた時、七尺五寸のモッコ棒で、棒頭の一人を思い切りたたいて、四メートル下につきおとして、一目散に逃げました。もう一人の棒頭の声が聞こえたのですが、追ってこれない。当時、私は前橋にいて、マラソンしていたので、足には自信がありましたし、何分にもまだ十六歳の若さがありました。出るとすぐ、丸太三本の橋があって、昼間でも、下の流れを見ると、こわいくらいのところでしたが、ここを走って渡りました。しばらくすると、資材小屋があって、声をかけられましたが、ふりきって、一晩中走って、走りぬきました。夜明けになって、近くに土方部屋があって、ここにころがりこんだのです。ここは、監獄部屋でなく、普通の飯場でした。ここで使ってもらうことにしました。でもここは、飲んで食うだけで賃金を払わないのです。それにしても、大正七年ころ、あんな監獄部屋の経験を持っているのは、他にいないでしょう。わたしも、今まで、こんな話を人にしたことは、ありません。
 このあと、鉱山暮らしがはじまるのです。友だちと三人で土方飯場を逃げ、福島のアカダマ金山まで歩いたのです。何しろ、金をもたず、カボチャや大根をかじったりして歩くのですから、腹がすいて仕方なかったのです。ソバ屋へはいって、持っていた半てんと交換して、ソバを腹いっぱい食べました。アカダマ金山に半年いて、山形の上之山の蔵王のふもとの硫黄山に行きました。アカダマ金山も、ここも、鉄索の仕事をしていました。鉄索は、今のスキー場のリフトみたいなものです。あれは、人を運ぶのですが、こちらは物を運ぶのです。当時、酒ヤモン(杜氏)で、一日五十銭くらいでしたが、鉄索の仕事は一日三、四円にもなり、いい仕事でした。上之山には、一年以上いました。
 関東大震災には、平の新たて鉱という炭鉱で遭いました。千二百尺下って、さらに斜鉱が二百尺の地の底で、壁がパラパラとくずれてきて地震とわかりました。
 兵隊検査は、福島の平でやりました。平でやるにしても、寄留届を出す必要があったのです。これで、家とも連絡がついて、熊次は無事とわかったのです。桐生にいたころから家では、行方不明となっていたのです。
 家は、大正八年の大感冒で、母が四十歳で死んだのです。これはスペイン風邪とよばれ、全国的に多くの死者を出しました。兄も十七で死に、家は、父福松がたった一人で暮らしていたのです。検査の終わった大正十三年一月七日、十年ぶりにて帰郷しました。もちろん、しばらく家にいたあと、また、外へ働きに出るつもりでいたのです。
 父は、押切まで迎えに出てくれました。その父の顔を見たとき、あまりに、ふけてみえて、今まで親不孝してきた自分が、後悔されて、とうとう、そこで家へはいる決定をしたのです。
 それから三日後、一月十日に高田の連隊に入隊しました。それから、十九師団奈良七十六連隊にはいって、二年勤めて、帰ってきました。招集されて、上海にいったのは、それから、十年くらいしてからでした。歩兵でしたが、生きて帰って来られたのは、上海に行った仲間の三分の一くらいです。ちょうど、そのころ蒋介石が、台湾にいたころでした。三十一歳の時、帰国しました。
 父は、酒が好きで、あっちへいっては飲み、こっちで飲みして、それが全部ツケで飲んでいたものですから、当時の金で二千二百円も借金がありました。八百円で、家が一軒たてられたのですから、今の金で、二千万円くらいでしょうか。十年がかりで、この借金をかえしました。砂利とり、船頭、橋かけ、とても苦労しました。結婚も、三十すぎてしました。それまでは、借金かえすのに忙しく、嫁をもらうこともできなかったのです。

 
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