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「船頭福沢熊次翁聞書」 | 第三小説集『さつきの花』

船頭福沢熊次翁聞書works

船頭福沢熊次翁聞書 2

 小国町の東と西を結ぶ渡し場(河戸)は、三桶、原、小栗山、相野原、押切の五カ所ありました。原は、今家はないが田川奥次郎、そして押切は、加瀬という人が船頭をしていました。相野原は、今の相生橋より下の小熊縫製工場のあたりに渡し場がありました。
 渋海川は、わたしが子供のころに比べて、川床が五メートルもさがっていると思います。小栗山の対岸の牛舎があるところが、むかしの川すじでした。
 渡し船は、越し舟とよぶ船で、長さ五間あり、幅も広いものでした。原から川下へ下って、長岡の草生津までゆくのは、長舟とよぶもので、長さは八間ありましたが、幅は狭く走りがよいように工夫されていて、米七十俵を一度に積むことが出来ます。
 越し舟も、長舟もすべて、浦村(現越路町)の舟大工がつくりました。長岡の草生津にも舟大工がいました。材料は杉材ですが、一つの舟で十年は、もちました。水につかっている所は、長持ちするのですが、水から出ている所が早く腐ってしまうのです。
 越し舟は、小栗山の部落のもので、新しく作る時や、舟の修繕は、すべて部落で負担しました。そういう時、舟の利用の多い、太郎丸の小須戸、郵便局、宮原商店、上岩田の百之助、糀屋商店、楢沢の高孫商店のようなところから寄付をしてもらいました。
 舟にのる人で、楢沢、上岩田、小国沢、太郎丸、森光、小栗山の人には、渡し賃は取りませんでした。そのかわり、秋になると一軒ずつまわり、ツナギといって、一軒から米四、五升集めたものです。これが船頭の賃金です。
 原の渡し場は、諏訪井と原で、それぞれ部落によって、持分が決まっていました。それ以外の人を渡すときには、一回一銭くらいの渡し賃をもらいました。
 船頭には、交代要員はおらず、わたしの場合には、父と二人でした。他のところでは、妻が渡すこともありました。夜中でも、急病人が出たりした時、病人を運ぶこともありました。まためでたい席によばれて、いつまでも飲んでいた酔っぱらいをのせることもありました。今より川幅も狭く、向こう岸で呼んでも、聞こえました。往復するのに、三、四分というところでした。
 舟を渡す時には、擢や棹をつかわず、両岸にわたしたワラ縄を手でたぐって舟を動かしました。この縄は、何本もワラを綯って、太くしたものです。冬、雪が降るころ、水を吸って重くなっていました。手でつかまるのが、しゃっこく(冷たく)、木の枝のカギの手になったものを切ってきて、これを縄にひっかけながら渡したものです。
 昔は、年に二、三回、川へ身投げする人がいました。そんな時には、この舟を出して、捜索に出ることが多くありました。
 明治のおわりまで、原から長岡まで、長舟が下っていました。長岡へは、二日がかりで米をつんで、その日草生津で一泊しました。次の日は、舟につけた麻縄を人力で引っ張って上流まであげたのです。大正にはいると、川下りの舟は、塚山までとなり、塚山駅から汽車に積んで運びました。塚山には、■(注1)と■(注2)の二つの運送店があり、■(注3)は、今のヨネックスの工場のある場所に倉庫がありました。■(注4)は、もっと下にあり、西谷の橋から二百メートルくらいさがったところにあり、そこに舟をつけて、荷をおろしました。長舟の船頭は渡し舟の船頭を兼ねていました。押切の加瀬さん、山岸モータースの爺さん、相野原のとうしちさんといった人が船頭をしました。
 舟の操船は、川より水を見ることです。水がどういうふうに流れているか、モレといって、水がもくもく盛りあがっているところは、危険なのです。川が崖にぶつかって渦巻いているところです。モレの上に舟がのると、舟は、脇にそれてしまい、そこを避ける技術もありました。舟には、そのために、擢と棹を一本ずつ積んでいたものです。
 川床の浅いところは、船底が砂利につかえて動かなくなるので、そういうところは、舟から降りて、押してやらなければならないのです。人間、だれも欲があるもので、どうしてもいっぱい荷をつんでしまうので、浅瀬で、つかえてしまうのです。
 昔は、船頭の服装は、褌一つ、股引ははかず、長綿入れに尻はしょりして冬でも通しました。股引をはいていると、川の中にとびこんで、水を吸って、しゃっこくなるからです。素足にワラジをはいて、川の中にはいりました。
 米をつんで下ったあと、上りの荷は、魚やミカン、肥料を積んで上がってきました。人の力で引っ張りあげるのです。引っ張るときは、百尋の麻縄を使って、引っ張るのです。船頭は、どうしてもカジをとらなければならないので、舟から降りられません。一人が引っ張る荷は、一荷(か)とよんでおり、米八俵の重さがありました。四人で引っ張れば、四荷の重さを運ぶわけです。空荷の舟は、二人で引っ張りました。四十俵くらいの米を五人で引っ張りあげることができました。
 川岸には、それぞれ倉庫がありました。原は、電気屋の家が倉庫、小栗山は、わたしの家、猿橋の橋元にも倉庫がありました。舟で運ぶ米は、前の日までに、それぞれの倉庫まで運びこまれるわけです。
 上りの荷は、岩田の倉庫におろすと、引っ張り手も舟から降りて、帳面つけして、楢沢や、太郎丸の人に知らせて、取りにきてもらいました。
 冬の米をそりで運ぶようになったのは、昭和にはいって、自動車が通るようになってからです。そりでは、前と後、二俵しか積まれず、はがゆい感じがします。舟では、一人八俵を運べるのです。運賃も、四倍になるのですから、舟は、大量の荷を一度に運べるわけです。
 船頭は、一日どれほどのお客を運ぶというわけではありませんから、笠をつくったり、投網を編んだりする内職も出来ました。前に話した砂利取りもまたいい金になりました。


注(■のなかの文字)
(1) ○の中に「は」
(2) ○の中に「に」
(3) ○の中に「は」
(4) ○の中に「に」

 
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