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「船頭福沢熊次翁聞書」 | 第三小説集『さつきの花』

船頭福沢熊次翁聞書works

船頭福沢熊次翁聞書 3

 大正の初めころから、そろそろ釣橋がかかるようになったのです。中曾根橋も早い方でした。原の平和橋は、昭和のはじめでしたか、戦争のあとにあの名がついたのです。
 渋海川や鯖石川の釣橋は、ほとんどわたしが手がけたものです。あれは、いろいろな技術がいるので、やはり手慣れたものでないとかけられないのです。渋海川の釣橋は、初め高田の人が来て、架けていました。小千谷からも人が来ましたが、わたしは、そういう人について一緒にかける手伝いをしていました。若い時、鉱山で鉄索を扱っていましたから、釣橋をかけるとき、その技術が役立ったのです。二十五歳の時でしたか、高田の中野というところから、釣橋職人が来て、大貝の釣橋をかけたのです。その高田の人は、お前は、十分一人で架ける技術があるから、これからは、わざわざ俺が来なくても、お前ひとりでやれるといわれたのです。いわば免許皆伝です。釣橋を架けるには、両岸に高いやぐらをたてて、ここにワイヤを張るのです。今は、ウインチやチェーンブロックがありますが、はじめのころ、カグラサンというものを使いました。角モンを四つに組み、真中に心棒を通して、ここに四人してロープを巻いてゆくものです。それ以後、渋海川だけでなく、鯖石川の釣橋架けるのも手がけました。白倉、岩瀬、高柳まで出かけました。今、残っている釣橋は、ほとんどわたしの仕事です。柏崎の植木組が釣橋を請け負ってみたものの、職人がおらず、私のところへたのみに来たことがありました。橋かけは、いい金になりました。一日米一俵分の金がはいったのです。
 小国にバスが通るようになったのは、大正の終わりからです。小国のバス運転手の草分けは、なんといっても、楢沢の彦七の人です。楢沢のバス車庫の前に家がありました。そのころのバスは、今のジープと同じくらいで、お客も六人乗ればいっぱいになりました。屋根にシートを張ったものでした。そのころの運転手といったら、原のまんじゅや、諏訪井の福原、猿橋の丸福、相野原のとうしちといった人でした。トラックの運転手としては二トン車で、早くは、横沢のとうじどんの人でした。この人は、塚山まで米を運んだのですが、三年でやめてしまいました。車掌の草分けといえば、小栗山のろくない、相野原のたつぞうという人たちでした。
 中曾根橋は、昭和三十年に永久橋にたてかえられましたが、その工事中も渡し舟で人を運んでいました。渋海川の舟は、大正で、その役目を車に譲ることになるわけですが、よく橋が流されると、臨時に渡し船が復活するわけです。
 若い時は、戦争にいって、三人に一人しか生きて帰って来なかった、その中にはいることができました。そのあとも、名古屋にいるおばさんのところへいった時、一冬だけ冬稼ぎをしたことがありました。あれは、昭和十三年のころでしたでしょうか、貨車と自動車に挟まれて、大腸を切断するはめにおちいったのですが、命だけは、助かってこうして生きています。わたしの同級生も、生きているより死んだ方が多くなりました。いろいろなつらい目や苦しいことを人一倍経験して、ここまで生きのびることが出来たのは、神様がついていてくれたというしかありません。つまらない話、長々と聞いていただき、ありがとうございました。

 
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