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「漉き舟の水」 | 第三小説集『さつきの花』

漉き舟の水works

漉き舟の水 1

 K市の郊外の田園地帯に、その団地は建っていた。同じ形をした、こじんまりした家が道路のわきに並んでいる。市の中心部へは、三十分おきに出るバスで、十分もすればつくことができる。すぐ近くには、金属工業団地もできていて、そこへは、歩いてゆくこともできる。
 橋本リタとトミ、息子の良一の三人が、隣町の過疎地、野地から、ここに移り住んで、二年目にあたる。もう、近隣の人たちとつきあいができてもよいのだが、日中は、どこも留守の家が多く、まだ隣近所にどんな人が住み、どんな仕事をしているのか、よくわからない。リタとトミも、あの野地では、ちいさな集落の一軒一軒、知らない家はなかった。ここに日中、家にこもって留守をしている八十六歳のトミも、ほとんど外に出る用はなかった。あるとすれば、五十メートルくらい離れた農協のスーパーに、リタにたのまれたおかずを買いにゆく時くらいだった。
 リタは、K市の中心にある大きなデパートの掃除婦として、朝は七時にバスにのる。
 十時開店まで、店内をきれいに掃除しておかなければならないからである。でも、この仕事も、一日中あるわけでなく、午前中だけで、午後二時には、家に帰ってくるパートの仕事である。はじめからこの仕事だったわけではない。ここに移り住んだすぐには、近くの金属団地の自動車部品づくりの仕事だった。歩いて十五分くらいで行けたし、いい金をくれるので、よろこんでいたのに、半年もしたら、この会社が、突然つぶれてしまったのである。この倒産、失業は、リタが、こちらへ引っ越してきて、はじめて経験したことであった。野地にいたときには、考えられないことであった。それから、しきりに職業安定所に通って、職さがしをしたが、五十をすぎた主婦に、満足できるような仕事は見つからなかった。三カ月間、遊んで、ようやく今の仕事を斡旋してもらった。良一は、近くの電気工事会社に勤め、二十八歳になるが、嫁がいない。
 秋のある日、郊外の橋本家に珍しい客がきた。野地の時も、度々やってきた先生をしている沖津である。この橋本家にとって、沖津とのつきあいも二十年近くになる。沖津は、橋本家で漉いていた和紙大国紙に関心をよせている一人である。以来、何度、この人が橋本家にやってきたかわからない。
「同じような家がならんでいたので、見つけるのに、苦労しましたよ」
といって沖津は、家の中にはいってきた。
「こんな家や土地を購入するだけでも、大へんだったでしょう」
とつづけた。
「こんな家なんか、野地にいたら、とても狭すぎて、暮らしてゆけるんでねえろも、ここにいると、他の人もみんな、けっこう狭い家で、やりくりしているがんでね。家なんか、それでもまだひろい方のがんそ」
リタはいった。
「ここまでくれば、もう紙漉きはだめですね」
「紙漉きなんか、手間ばっかかかって、金にならんがんそ」
「これで、紙漉きの里として知られた野地も、一軒も紙を漉いている家がないと思うと、さびしいですね。三百年以上も続いた紙漉き村も、時代の波に勝てなかったんですね」
「おらも、好きで野地を出たがんでねえがんそ。とうちゃんでも、生きていてくれたら、こんなこともなかったんだろも……」
「そうでしょうのう、ようわかりますて」
沖津がいった。リタの夫、五郎が、出稼ぎ先で、急死したのは、三年前の秋のことであった。毎年、関東方面の酒づくりの杜氏として出稼ぎ中に、脳出血で死亡した。リタは、あの知らせのはいった日を忘れない。朝仕事にでかけようとして、急に玄関先で倒れ、大きないびきをかいたという。同じ野地から働きにいっている人が知らせてくれた。リタはとるものもとりあえず、親戚の人と東京へ向かった。あの日を軸に、橋本家の運命がかわったのだと思う。
 五郎は、酒がすきだったが、実直でよく仕事をした。出稼ぎ前に、前の畑の楮切りから玉ぎり(楮を桶に入れる長さに切る)、楮蒸し、そして皮むきといった、紙漉きの準備をすべて手伝ってくれた。紙漉きは、この下ごしらえとよぶ準備工程が手数がかかるのである。あの時、五郎は、五十五歳、これから、まだまだ働いてもらわねばならない人だった。
 五郎が死ぬ前の年、嫁いだばかりの二女広美が肺炎でなくなった。風邪をひいたといって、勤め先のデパートを休んだ翌日なくなった。
 広美の葬式の時は、泣いてばかりいるリタを励まして、てきぱきと仕事をしていた五郎であった。五郎は、娘がつれていったとリタは思う。橋本家を襲った不幸は、リタを弱気にした。良一は、もうこの地に戻ってくることはないであろう。この先、八十歳をこえたトミと女二人で、この野地で暮らしてゆく自信がリタにはなかった。五郎の葬式がおわって、一段落したところで、リタは村を出る決心を固めた。
「村を出るには、あと始末が大へんだったでしょう」
沖津が聞いた。
「そういうがですて。長年住んだ家屋敷も整理しなけりゃならんし、畑だって、楮の始末もあったし、それでも、家は、東京の人が買うてくれてね。安かったろも……」
 リタは、東京の人が買ったというだけで、どんな人が、あの家を買ってくれたのかその人にまだ会ったこともない。間に立った人に、すべてまかせたのだ。おどろくほど安い値段だったが、それでもまだ買ってもらえるだけありがたかった。買い手がなくて、放置しておけば朽ちるにまかせるだけである。先祖代々住み継いできた家が、捨てられ、お化け屋敷になっている姿は見るに堪えない。それは、まるで死んだ人の葬式を出せず、遺体を腐敗してゆくにまかせておくようなもので、とても見ていることはできない。「人の手でこわすにゃ金がかかるが、雪にこわしてもらえば、ただそぉ」という人もある。金をかけて家をこわすより、一冬放って置けば、鉛のような重い雪が、一銭の金ももらわず一瞬にして、ぺちゃんこにしてくれる。リタは何軒か、雪でつぶされた家を知っている。リタの家は、幸いなことに人手にわたって、その姿を見ないですんだ。楮は、隣の町で紙漉きをしている人が、すべて買いとってくれたし、田んぼは隣の人が作ってくれるという、こうして、少しずつ、村を出る準備がととのっていった。
「そっでも、村を出る時にゃ、涙が出てのう。近所の人が見送ってくれたが、涙でかすんで、だれがだれだったかわからねえぐれいだったのう」
 荷物は、前もって運んであったから、体一つ、リタとトミは、良一の車にのりこんだが、ちょうど雪降りをおもわせるどんよりした秋の空だった。あの時、この野地の急な坂道がリタには、ひどく親しいものに思えた。五郎や広美の埋まった墓を置いたまま、生きている三人は、こうして、野地の坂を一気に下っておりた。

 
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