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「雪に包まれる村」 | 第三小説集『さつきの花』

雪に包まれる村works

雪に包まれる村 5

 訪日するアイクの日程うちあわせに来たハガチー氏の車がデモ隊に乱暴されたニュースをきいたのは、書店の店頭であった。私はそのニュースをきくと、急いで街路へ出た。外は雨が降っていた。私は狂人のようにその雨の中を寮に帰って来た。寮のテレビの前は黒山の人だかりだった。画面はハガチー氏の車をかこんだデモ隊やそしてその車の中で冷然とタバコを吸っているハガチー氏の顔を交互に映し出した。ハガチー氏の車のガラスが突然割れる。幾重にも幾重にもそれをかこんでいるデモ隊、その車の上にのって狂気のようにデモ隊を静めようとする学生、そしてヘリコプターで救助されるまでの何分間、私は複雑な気持だった。デモ隊がうつると寮生たちはさかんな拍手を送った。デモ隊の人たちのやっていることは正しいのだろうか。外国の客を迎えるのに、それに乱暴することが正しいのだろうか。それよりも岸内閣が新安保を強行採決したことが間違っているのだろうか。だれが善でだれが悪なのだろう。私にはそれがわからなかった。それがわからないまま、不安だけが増していくばかりだった。
 それだけではなかった。六月十五日には国会に入ろうとした全学連と警官が衝突して一人の女子学生が死んだ。同じ仲間が東京で国の権力に反抗している。いつのまにか私の頭の中から、それが誤っているとか正しいとかいう考えは消え去っていた。あの時テレビに映っていた同じ仲間たちの悲惨な姿は私の底を流れている人間としての血を熱く燃えたたせた。山のように積まれた靴。救急車に運ばれる手錠をかけられた学生。燃え上がるトラック。その夜、私はずっとテレビの前を離れなかった。
 ベッドにもぐりこんだのはもう十二時をすぎていた。電灯を消してじっと横になっていると、窓の方がボーっと明るかった。外は月夜なのかも知れない。もう他の者たちも大方眠っているのだろう。静かであった。私のまわりのものはしーんとしていた。私は信じられなかった。今日本の国中を大きな嵐が荒れ狂い、その中で自分という小さい舟が木の葉のようにいつのまにかその嵐の中にまきこまれているのだということを。今ごろ国会議事堂のまわりでは警官と学生がにらみあい、そこでほんの少しまえに一人のひよわな女子学生が死んだことが。そしてその母親は娘の屍にとりすがって鳴咽しているであろうということを。この大きな嵐の中で私はいったいどうやって生きていけばいいのだろう。ほんとうに正しいことはどれなのだろう。八千万の日本人の中のたった一人でしかないのに、私が生きていくことがひどくむずかしいことだと思った。
 しかし、今静かに横になっている私の前には、日本の国中を吹き荒れている嵐の音は全く聞こえなかった。そして私のまわりにはいつもと変わらない夜の静寂だけがあった。テレビのなまなましい場面ですっかり興奮しきっていた私は、この静寂の中で妙に白けたけだるさに襲われた。
 その翌々日、東京の空は美しく晴れわたっていた。昨夜他の学生たちの盛大な見送りの中で東京デモにやってきたのがうそのようであった。日比谷公園の芝生には沢山の鳩が群がっていた。時間が過ぎるにつれて地方から上京してきた人たちが続々とこの公園の中に入ってきた。労働歌が歌われ、赤旗がひるがえった。しかし、芝生の中の鳩の群れは次々と飛び立ったかと思うと大きな輪を描きながら、再びおりたって餌を拾っていた。いま日本に吹き荒れている嵐の中心にたっているのだという実感はその鳩の群れを見ていると少しもおこってこなかった。あの日、ベッドの上で横になっていた時の静けさがここにもまだ残っているのだ。私はそれを発見したことがひどく嬉しかった。
 その後私達は他の人たちと十列の隊を組んで日比谷公園の前から警視庁に向かった。あちこちのビルの窓から紙吹雪がとび、拍手がおこった。だれもが凱旋将軍のようにそれに応えた。デモは警視庁の前で激しくジグザグデモにうつった。広い道路一杯に激しい人間の怒りが渦まいた。それからデモの群集は、国会やアメリカ大使館、首相官邸などを幾重も幾重もまわった。アメリカ大使館の前ではだれもがあらゆる罵声を上げアメリカ人を罵った。国会議事堂のガラス窓は投石のためいくつかこわれていた。私はさっきからずっと沈黙したままだった。昨夜の夜行で眠らなかったためにすっかり疲れ切っていたのかもしれない。しかし、私は何の罪もないアメリカ人をにくむことも出来なかったし、暴徒のレッテルをはられたくもないと思った。デモに出ることが私の意志のせいいっぱいなのであった。国会前のすわりこみをといたデモの群集は、次の集会地である国立劇場予定地に行った。そして私はそこでギッシリとその広場を埋めつくした人間をみた。これらの一人一人がそれぞれの意志をもっているのだろうか。しかし、私はそれよりもさきに、それらの群集が一つの大きな動きの中で波のように引いては打ち寄せているのだと思った。だれもがはっきりとした意志をもった人間であるという気は少しもおこってこなかった。私もまたその大きな波を作っている水滴に過ぎないのだ。演壇に人が立つ度に大きな波のような群集は大きくどよめき激しい拍手がおこった。列の先頭に立っている風が吹くと一斉に鳴った。
 俺は何のためにこんな群集の中にいるのだろう。新安保条約のどこに反対しているのだろう。そしてそれについてどれだけの勉強をしてきたというのだろう。私にその波のように静かに動く群集の中でそれらの疑問が潮のように襲いかかった。そして私は突然とりのこされたような孤独感に襲われた。俺はいったいどれだけの意志をもっているというのだろう。所詮、私もまたあの激しい嵐の中にもまれて自分をすっかり忘れ去った一粒の水滴ではなかったか。あの駅をたつときの沢山の見送りの友達の顔が浮かんだ。
「怪我だけはせんようにやれ」
といってくれた先生。
「渡辺さん、がんばってね!」
と一団となって送ってくれた女子寮の人たち。私はその人たちのために何が出来るというのだろう。結局ダンスに夢中になったり夜ふかしでマージャンをやっている友達と同じことをやっているではないか。「お前は卑怯者だ」そういう義一の声が耳元でガンガンとひびいてきた。私はめまいを感じて立っていられなくなった。波のような群集が私に大きな音をたてて襲いかかって来るのだと思った。私の所へかけよって来る友達が黒い壁のように広がった。

 
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