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「道徳教育研究指定校」 | 第一小説集『雪残る村』

道徳教育研究指定校works

道徳教育研究指定校 1

 職員招集のベルを合図に、教務室から離れていた二十三名の職員たちは、あわてて教務室にかけこんできた。別に計画された職員会議もなかったので、はいってきた職員は何事だろうと顔を見合わせて席についた。全員が席についたのをたしかめると、吉村教頭が話し出した。
「校長先生のいないとき、皆さんに急拠集まっていただいたのは、実は本校が市の道徳教育指定校になるよう依頼を受けていることについてであります」
 このことばに、二十三名の職員たちは一斉に吉村教頭の方を注視して、次のことばを待った。
「この指定校を受諾するかどうか、三日以内に市教委まで返答しなければなりません。指定校になった場合には、これからさき皆さんに大きな負担がかかることは明らかです。
 三年前、本校が学校行事の研究指定校を返上したいきさつもあります。指定を返上することは簡単ですが、校長先生の立場を考えると、すぐ返上ということも出来かねると思います。しかも、校長先生はことし限りで停年です。この際、この去ってゆく校長先生に花をもたせてやるためにも、この指定校をひきうけざるをえないと思うのですがどうでしょう。
 もちろん、私は道徳教育については全くの素人ですし、初歩からやっていかなければならないと思います。これは、日頃あまり深く考えずに道徳の授業をやっている私たちにとって、ちょうどいい勉強の機会だと思いますがどうでしょう」
 だれもこの吉村教頭のことばに正面きって反対の意志表示するものはいなかった。しかし、だからといって、だれも決してこの受諾を歓迎しているわけではないことは、お互いに顔を見合わして、ことばを出さないでいることによってもわかった。
「また、いやなことがまわってきたな」という小さな声が、山崎の近くでした。研究指定校という仕事はどんなことをするのか、ことしようやく教職生活三年目を迎える山崎にはよくわからなかった。
「研究指定校というのは、どんなことをするのですか」
 山崎は隣の平野先生にそっときいてみた。
「結局、秋の研究発表が中心になるでしょう。公開授業をやったりね。前の学校で経験していますが、とても簡単にやれるものではありませんよ。仕事はどんどん増えるし、なんといってもそのしわよせは必ず生徒にいきますからね」
 平野先生は、あたりをはばかるような声で山崎に教えてくれた。しかし、どうせ山崎ひとりがやることではない、それに研究というのだから、いままでなにもしないで漠然としているよりも面白いだろう。山崎はそんなことを思っていた。
「みなさん、反対の意見がありませんが、この指定をうけるということできめてもらっていいですね。みなさんの御苦労はよくわかっています。しかし、この際、まげてお願い致します」
 この日の職員会議では、ほとんどこの吉村教頭の話でおわった。山崎でなくても、この指定受諾の理由が理由にならない理由であることを知っていただろう。しかし、ここで反対することも、それ以上に無駄なことも知っていた。二十三名の無言の受諾によって田原中学校は本年度市教育委員会、道徳教育研究指定校に決定した。吉村教頭から職員会議の結果をきいた野瀬校長はほっと胸をなでおろしたにちがいない。
 その山崎に、道徳主任の役がまわってこようとは、考えてもみなかった。
「山崎先生、先生でないと他の人はできないというのです。先生は、去年から道徳の授業を熱心にやってくれたし、ぜひ先生からこの仕事を引きうけてほしいんです」
 職員会議のあと、吉村教頭は、山崎にたのんできた。
「とても、そんな大きな責任のある仕事など私にはできそうもありません。もっとベテランの先生たちがいるじゃありませんか。私はまだ、そんな年ではありませんよ」
「年なんてこの際問題ありませんよ、私は、山崎先生こそ、道徳主任として最適だと思うのです。お願いしますよ。もちろん、先生に仕事をみんなやってくれというのではありません」
 吉村教頭に、こうしてたのみこまれても、山崎には、この仕事をはたしてひきうけるべきなのか、ことわるべきなのか、判断に迷っていた。しかし、この道徳主任は、いつのまにか、山崎のところにまわってくるはめになった。はっきりと断れなかったことが、吉村教頭に承諾とうけとられたのだ。
「この仕事を立派にやれば、たちまち先生の名前は有名になます。そういうことがこれからの教職生活に決して無駄ではありませんよ」
 吉村教頭は、山崎のそばでこう耳うちすると席を立った。すでに研究はスタートしたのである。
 指定校が正式に決定されたすぐあと、研究組織が作られ、さっそく、初めての推進委員会が開かれた。吉村教頭をはじめ、山崎と各学年一人の委員、そして学年主任、あわせて九人の人たちが顔をそろえた。 「十一月に研究発表会をやるとしても、実質六カ月の期間しかない。各自それぞれ都合もあろうが、決定された以上、この研究会を立派にやるために、心をあわせて、研究推進にがんばってもらいたい」
 野瀬校長の型通りのあいさつのあと、吉村教頭から、さっそく研究の方針についての説明があった。
「先般職員会議にもお話しましたが、私自身道徳の授業というものを、まだ一時間もやったことはありませんし、研究指定校といわれても何をやってよいのかわからないのです。幸い、ここに他校のすぐれた研究成果がありますし、それを参考にしながら、主事さんたちの御指導をうけながらやっていきたいと思います」
「研究指定校といえば、研究発表と公開授業をやることが中心となるとおもいますが、研究主題をどうきめたらよいのでしょう」
 委員の中からこんな質問が出た。
「結局、この研究書を作ったS校あたりもやっている、道徳教育の年間計画と全体計画に中心がおかれるでしょう」
 吉村教頭は目前につまれた部厚い何冊かの研究書の一冊をとりあげていった。
 そのあと、年間計画と全体計画について話がうつっていった。しかし、田原中学校には、この二つの計画のいずれもなかった。田原中学には、たしかに道徳の時間は、時間表の中にくみこまれていたが、それはクラスによってごく自由であった。ある職貝は説教の時間に使ったり、ある職員は読書の時間にあてたりしていた。満足な道徳の授業が行われているクラスはごく少なかった。
「実のところ、本校では、道徳教育について全く計画というものをもっていないのです。今回の研究も、この二つの計画の立案と実践に中心を置くべきでしょう」
 平野先生は、こう主張する。
「しかし、それはよくないでしょう。そうなると、今まで本校で、計画だった道徳教育が全く行なわれていなかったという印象を参加者に与えてしまいます。やはりこの研究も、従来の計画が実状にあわなくなったから改正することを主題にすえたらと思います」
 吉村教頭はこういったあと、野瀬校長の指示を仰いだ。
「なんといっても、本校の恥をさらすようなことはよくない。改定という形で研究をすすめていきたい」
 野瀬校長は、いかにも当然のことのようにいった。山崎にとっては、いったいどの方向をとるべきなのかわからなかった。しかし、研究の出発点が、ひとつのうその上にたってはじめられることに奇異の感をもった。それは、彼がかって大学でやってきた研究とは趣がまるでちがっていた。しかし、それを率直に質問するという山崎ではなかった。それは自分がまだ教職経験が浅いために考えるまちがいなのだ、山崎は自分自身でそう納得した。平野先生も、それ以上はいわなかった。他の委員たちも一致した。
「これからの研究方法についてのきょうの話合いの結果は、明日山崎先生とふたりで主事さんを訪ねて報告するつもりです。きょうはおそくまでごくろうさんでした」
 この日の委員会はこうしておわった。山崎は、これからさきの研究が、彼の生活にとって大きな束縛になるとは、全く思ってもみなかったことである。

 
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