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「道徳教育研究指定校」 | 第一小説集『雪残る村』

道徳教育研究指定校works

道徳教育研究指定校 2

 校長室の長い机の上には、どの委員の前にも何まいかのプリントが無造作に重ねられていた。それらのプリント類のガリ切り、印刷は道徳主任である山崎の仕事でもあった。推進委員会の話合いの記録をまとめ、話合いのための原案をつくることなど、山崎は吉村教頭に相談しながら作っておくのだ。委員会が開かれる時、必ずなにかのプリントが配られた。
 きょうの委員会は、まず本校の道徳教育の目標をつくることにあった。これも実は、吉村教頭と山崎が指導主事訪問によって教えられたことであった。校長室の時計はついさっき、七時をうった。委員会の会場である校長室の蛍光灯があかるくともっているほかは広い校舎はしずまりかえっていて、気味悪いほどであった。会場の窓から南校舎の黒々とした建物が、せまってくるようにさえ感じられた。話合いは、まだ容易に終りそうもなかった。その証拠に、ついさっき店からとる夕食の注文をとったばかりである。
 プリントされた田原中学校の道徳教育目標は三つあった。
(1) 日常生活における基本的事項を身につけ、節度のある態度をとらせる。
(2) 自他の立場を尊重し、うるおいある生活感情を培う。
(3) 集団の一員としての自覚をもち、お互いに協力する。
 これらの目標はむろん、独自のものではない。いろいろな学校の目標を少しかえたにすぎない。
「(2)において、自他の立場を尊重しとあり、(3)において、集団の一員としての自覚をもちとあり、この(2)(3)の間に重複しているところがありませんか」
「いや、私ははっきりちがっていると思います。(2)では、個人個人ということに中心をおき、(3)では集団が前面に出ているでしょう」
 こんなところで、それぞれの委員たちはあらためてこの文章をよみなおすのだ。
「どうも、私にはよくわかりませんね。でも去年の研究指定校S校の紀要では、別々にしていますから、いいではないですか」
 わからないのは山崎だけではなかった。委員の人たちのだれもが、よくわからなかった。
 そしておちつくところは、他の学校のようにしておけば無難だろうということだった。そして、ようやく三つの道徳教育目標がきめられようとするころ、突然、平野先生のつぶやきがきこえた。
「それにしても、いったい道徳教育の目標はこんな机上の作文であってよいのでしょうか。
 こういう目標が、それぞれ学校によって違うとは考えられないのです。こんな目標はどこだってあてはまる、ひどく抽象的なものですから」
「それでは困ります。研究指定校として、やはり体系的な独自の研究をすすめようというとき、形はどうであれ、目標がなければなにごともすすまないでしょう」
 山崎が吉村教頭とふたりで、指導主事を訪問したとき、主事もこのことを強調していた。吉村教頭が、今それを主張することも当然であろう。
 この目標がなんのために必要で、どこでどのように生かされてゆくのか、山崎自身もまだ完全に納得しているところではなかった。しかし、今、そんな逡巡はゆるされなかった。早く目標を作り上げ、次の段階に研究をすすめていかなければならないのだ。あと五ケ月ほんとうに、研究会はできるのだろうか。
 推進委員会がおわったのは、それから二時間もすぎてからであった。教務室の自分の机にもどると、山崎はそこにくずれるように腰をおろした。彼の机の上には、生徒のもってきたノートや日誌、職業相談票、それに道徳関係の資料集が、所せましとばかり積み重ねられていた。どれひとつみても、次々と机の上につみ重ねられたまま、みな中途で仕事を投げ出してあるのだ。しかし、今、山崎は、それを手にとる気はしなかった。とらえどころのないような激しい疲労感が山崎にまといついて離れなかった。目標もわからないまま自分の体がはげしくむちうたれるのを感じた。
 まだ仕事はおわったわけではなかった。今の委員会の話合いのまとめをガリ切りしていつでも職員会議にはからなければならない。しかし、山崎は今、その仕事をすることがひどく苦痛であった。田原中学校の道徳教育の目標がどうかわろうとも、山崎のおかれている教育者としての立場や、仕事はいささかもかわるわけではないだろう。厖大な精力と時間とを費して、教育の仕事にとっては、全く無駄なことをやっているのではあるまいか。今やっていることは、少しも教育とかかわりがないのだ。教師でありながら、しだいに教師から離れたことをやってゆくのではないか。山崎はそう思った。だれひとりいなくなった夜の教務室はわびしかった。山崎はかたい椅子をひきながら、腰をおろしたまま、いつまでもそのままでいたいと思った。

 
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