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「道徳教育研究指定校」 | 第一小説集『雪残る村』

道徳教育研究指定校works

道徳教育研究指定校 7

 道徳計画の年間計画の作成と併行して、盛んに道徳の研究授業も行なわれた。発表会までに学級担任は必ず一回は校内研究授業をやることがきめられた。その時は、他の授業時間は自習にして、研究授業の教室に集まった。一年から三年まで、三時間の研究授業と、授業は五限まででうちきって、あとは研究協議にあてられた。だからこの日、研究授業にあたらないクラスは五時間のうち、三時間が自習になった。わずか、週一時間の道徳の時間のためにこれほどまでにする必要があるのか、もちろん、その研究授業に集まってくる職員のだれひとりとして、この異常さを感じないものはいない。しかし、これも研究発表会のためにやむをえないといえば、これまただれも納得しないものはないにちがいない。
「今はただ、りっぱに発表会を成功させること以外考えないことだ」
 それはいつのまにか、田原中学校二十三名の職員のあいことばにもなった。
 田原中学校の年間計画の中には、去年から発行されている、文部省の道徳資料集から、多く資料が求められていた。
「せっかく、いいものが出ているのだから、どんどんこれを使ってもらいたい」
 という、主事さんの要請があったためである。
 その日、山崎のやった授業は、やはりその資料の中にある「さよちゃんをめぐって」という生徒作文であった。中学を卒業したばかりでバスの車掌さんになったさよちゃんは、その収入によって、家計の半分以上を支えていた。そうした家族の期待と感情をうけながら、けなげに、自分の職業にうちこんでいこうとする少女の作文であった。この資料を通して、仕事の喜びや意義を教えていこうというのである。山崎が最初、この資料を読んで感じたことは、そうした仕事の喜びや意義ではなかった。さよちゃんと、その家族のもつあまりのみじめさである。わずか十八才の少女の働きに、頼っていかなければならない家の両親はなにをしているのだろう。この資料の中の父は「若い時の苦労は買ってもせなああかん」というだけなのである。さよちゃんが帰ると、家中で果物をやったり慰めてやっている姿はいじらしいほどである。
 授業はまず、導入として毎日の仕事に対する気持ちからはいって、この資料のさよちゃんのおかれた環境を確認する。そうした環境の中にあって、周囲の人たちの善意と愛情に包まれて、たくましく生きていくさよちゃんの姿をうきぼりにしようとする。
「さよちゃんは家庭の中でどんな位置にあるのか」
「さよちゃんは車掌としてどんな苦労をしているか」
「さよちゃんの仕事に対する考えは、他の人たちとどうちがっているか」
「このさよちゃんをどう思うか」
 こうした質問に、生徒はいきいきとした反応を示さなかった。いかにもわかりきったことをきく、山崎を軽蔑するような態度さえ見られた。しかし、こうした質問は、山崎だけでない、少なくても、この資料によって授業をやる限り、だれも同じことをするはずであった。そうした質問のくりかえしで、ほんとうに仕事の喜びというものが、生徒の中にはいっていくのだろうか。道徳の授業は、行動に移らなくても、その直前まで心情を高めてゆくことにあるという。この一時間に、ほんとうに、仕事の喜びを持とうとする生徒の心情は高まっていったであろうか。次々に出る質問に答えるだけで、終ったあと、なにも心に残らないのではないか。生徒の作文はこう書く。
「このごろのわが校の道徳の時間は、今までとは大いにかわった。去年までは、道徳の時間といえば、他の教科のように、教科書もないし、先生の話や、読書、遊びの時間みたいだった。だから、あまり道徳といってもよくわからなかった。
 でも、ことしからはまるでかわってしまった。こんどわが校で、道徳の研究会があるとかで、授業の時、テキストが使われた。そして授業の時、それを読んで、内容についていろいろ先生が質問したり、自分の感想をいったりするようになった。ぼくは道徳の時間というのは、国語と同じものなのだろうかと思ったりした。しかも、研究授業がたびたびあって、後に校長先生が来ることもあった。そんな時、いくら自分の意見をいえといっても、とてもいえたものではない。こんな時、自分にかからなければよいといつもひやひやしている。それに校内をきれいにするために、床みがきをしたり、掲示を作ったり、ガラスを入れたりして、まるで今までの学校とちがったみたいだ。そんなにまでして、よいところを見てもらわねばならないのだろうか。研究授業の時だけまじめにやっても、またおわればもとにもどってしまう。
 いったい、道徳の授業とは、どんなことを習う時間なのだろう。あるときは、先生は、これからひとりの社会人としてりっぱにやってゆくための心構えを勉強するのだといった。でも他の授業とちがって、試験もないし、自分の感想をいったりするくらいで、退屈な時間である。いまもって、道徳の時間はよくわからない」
 山崎があれほど懸命に、綿密な指導案をたてて行なっている授業さえ、生徒にはこんなにしかうつっていなかった。山崎は生徒に自分の心を見すかされているのに気づいてどきりとした。山崎の頭の中には、ひとしきり、道徳の授業に対するあらゆる疑問や不安が、大きなざわめきをともなって浮かんできた。それらが、一通りすぎさってしまったあとに、ひとつたしかなものだけがのこった。いまは、瞬時のためらいも疑問もゆるされない。ただ研究会をりっぱにやることだけだ。参会者から予想されるあらゆる質問に手際よく答え、みんなからいかにもりっぱなすばらしい研究会としてほめてもらうこと。自分たちの研究の方法について、生徒から出される手痛い疑問について、現在の山崎の不安も、ためらいも最後にはここにたどりつくのだ。それは、この春以来、山崎のあらゆる思考の到達点であったと同時に、それは二十三人の職員と六百人の生徒の到達点といってもよかった。
 生徒の作文を机のすみに重ねると、山崎はたちあがった。また次の研究会のプリントを作らなければならないからであった。

 
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