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「道徳教育研究指定校」 | 第一小説集『雪残る村』

道徳教育研究指定校works

道徳教育研究指定校 9

「みなさん、私は今まで三十五年間も教員生活をやってきたが、きょうほどうれしかったことはない。これも、みなさんがほんとうに、ひとつになってやってくれたおかげです。ここに校長は深くお礼をいいます」
 吉村教頭をはじめ、二三人の職員たちは本庁に帰る平沢主事を送って、玄関までいったときだった。野瀬校長は、それも見送らず、残った職員たちの前に正座して、低く何度も頭をさげていた。いままで杯のやりとりでざわざわしていた座が一瞬静まった。たしかに酒はかなりはいっていたのだろう。日頃、校長室の大きな机の前で、職員を目がねごしに見るあの謹厳さからは、とても考えられないほど奇異な行動であった。しかし、その時だれもが、野瀬校長のこっけいなしぐさを笑わなかった。野瀬校長の目にかすかに光るものを見たせいなのだろうか。
 酒はつぎつぎとまわってきた。山崎も思わず杯を重ねた。彼の体を支えていたものが、すっかり融けてゆくような感じであった。なにもかもおわったのだ。研究紀要のおわりには次のような文で結ばれていた。
「私たちは、ここに一応の全体計画と年間計画をまとめ、効果的な道徳の指導をすすめてきたが、それを実際たしかめる余裕をもたなかった。その意味では研究はまだはじめられたばかりである。この研究成果をもとに、何度かの実践を通して、これらの計画を一層充実してゆくために、これからも研究を続けていきたい」と。
 しかし、山崎はもとより、田原中学校の二十三名の職員のだれひとり、今までの研究が、今後も続くとは思わなかった。研究はすでにりっぱに完成したのだ。明日からは再び今までの失われた時間がもどってくるだろう。彼を追いかけていた、何か大きなものが、今彼の前から消えようとしているのである。盃を重ねてゆくうちに、山崎はそれだけを喜んでいた。
 田原中学校の部厚い研究物は、そのうち洪水のようにやってくる小冊子の中にまぎれこんで、かんたんに捜せなくなるだろう。
 野瀬校長は、ベルトの間に空の銚子をぶらさげておどっていた。だれかの歌う卑猥な数え歌にあわせて、その銚子を上に押し上げると、そのたびにどっと笑いがおこった。そしてその宴会は、いつ果てるともなく続いた。
 その日の夜、泥酔した職員のひとりが、車を運転して、決して小さくない事故をおこしたことは、田原中学の職員の間でも秘密にされたままだった。
 道徳教育の研究指定校ゆえに。

 
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