本文へスキップ

「いかのぼり」 | 第一小説集『雪残る村』

いかのぼりworks

いかのぼり 1


   いかのぼりきのふの空のありどころ

 真島先生はこの蕪村の句が好きだった。大学にはいったばかりのころ、私はまだその句の意味がよくわからなかった。この句だけではない、わずか十七音の中に、自分の気持ちを読みこもうとする俳句なんてなんと退屈なことだろうと思っていた。だから、国文学を勉強しながら、俳句や短歌というものに、私は全く関心を示さなかった。もちろん、近世文学の演習の時だって、この句も他の多くの俳句と同じように、すっかり無視されたままであった。それなのに、私はふとこんなことを思い出した。
「この句は、私がほんとに好きな句だ。この句の中には、なにかことばにあらわせない人生の孤独というようなものがあらわれている」
 真島先生はたしか、こんなことをいった。私は、開いたままの蕪村句集から目を離して、そのときの真島先生の姿を懸命に思い出そうとした。度の強い眼鏡をかけ、目をおしつけるよううにして、本を見ながら、その時の先生はどんな表情であったであろう。いつも目の奥にやさしさをたたえていた先生は、おそらくきっと真剣な、どこかさびしさのある表情でいったのではあるまいか。
 すみきった春の空の、どこか一点に、白い紙の凧がぽつんと浮んだまま動かない。その動かない凧は、空の青さにとけこみそうになりながらも、きのうもきょうもあがっていた。その凧は明日もまた同じところにあがっているだろう。無限に続く時間と空間とを区切るように浮かんでいる凧、それはまた、無限に続く悲しみに懸命に耐えている姿でもあり、超然として、ひとりゆく孤高な姿でもあるのだ。
 私はそこに思いがけず、真島先生の心の奥を読みとったような気がした。青空に消えるように、動かず一点にとどまる凧は、先生の姿なのかも知れない。

 
1 >  >  >  >  >