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「いかのぼり」 | 第一小説集『雪残る村』

いかのぼりworks

いかのぼり 3

 文学研究部主催の歌会は、新入部員を迎えて盛大に行なわれた。真島先生と田村先生の二人をかこむように、二十人近い部員が向きあって坐っていた。そしてそれぞれの机の上には、ぎっしりと歌が印刷されてある半紙が配られていた。みんなは、それらの歌を読んだり、メモしたりしながら、会がはじまるのをまっていた。その片隅で、生まれてはじめて出る歌会をおそれるかのように、私も席についていた。名前こそかくされているが、私の歌もその中に二首はいっているのである。その私の歌がどう批評されるであろうか。不安とともに、ひそかな期待を抱いて、私はそこにすわっていた。
 歌会のはじめは、司会者がまず全部の歌をよみあげることからはじめられる。そのあと参会者が、何首かの歌を選び、その点数をきそうのである。そしてお互い批評しあったあとで、二人の先生から講評をしてもらうことになっていた。
 全体の点数が発表されても、私の歌はとうとう一点さえもはいらなかった。三十一文字短さでありながら、歌をつくることが、これほどむづかしいものとは思わなかった。ことばをねりにねって、ことばに対する感覚をみがくきびしさが短歌の中にあるのだ。私め歌は一点もはいらなかったが、しかし、真島先生のことばは意外だった。
「平野君の歌は、表現にもう一工夫が必要ですね。しかし、歌を真剣に作ろうという気持ちはよくわかります。しかもこの人は、語感も悪くありません」
 この批評が、私のはじめて作る歌に対する先生の批評であった。歌に対する真島先生のするどい直感力と、そこに作者への暖かな思いやりがこめられていた。その時から、私は真剣に短歌を作ってみようと思いはじめた。度の強い眼鏡の奥で優しく笑う、真島先生の歌に対する情熱がのりうつったような感じであった。
 歌会のあと、田村先生は、真島先生の歌歴について話された。
「先生は、かつて北原白秋の門下生として、有名な『多磨』という雑誌が発行されはじめた最初から活躍しておられた人です」
「そんな昔はもうやめましょう。もう古すぎてお話になりませんよ」
 真島先生は、盛んに田村先生の話をうちけすようにいい続けた。
 しかし、田村先生の話は、続けられた。
 真島先生が県北部S市の大きな地主の長男として生まれ、東大に在学中歌を作りはじめたこと、はじめアララギに近づいたが、後白秋の「多磨」の第一部会員として活躍していたこと。 そのころの先生は、白秋の五人の弟子の一人に数えられていたこと。現在中央の一流新聞の歌壇の選者であるM氏や、宮中の歌会始めの選者でもあるK氏など、そのころ真島先生と一緒に歌作にはげんでいたこと。
 後に、先生は郷里に帰り、白秋の死後もうほとんど歌を作らなくなってしまったこと、田村先生の話は、それからいつまでも続いた。真島先生は、それをさえぎるように、
「もう、みんな昔のことです。田村先生やめて下さい」
 といいつづけていた。そういって過去の話をしまいとする真島先生の顔には、どこかふっといい知れぬさびしさがよぎるような気がした。
 そのまま中央にとどまって歌作を続けさえすれば、今ころ中央に押しも押されぬ歌人として、歌壇をリードしていたであろうに、その真島先生が、いったいなぜこんな場所で、地方の小さな教育学部のかたすみで教鞭をとっているのであろう。度の強い眼鏡の奥に無上の優しさをこめている真島先生に、こんなおもいがけない過去があったことなどで、私には意外であった。そして先生がどうしてこんなところで、こんな生涯を送っているのか私にはそれがひどく知りたかった。

 
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