本文へスキップ

「いかのぼり」 | 第一小説集『雪残る村』

いかのぼりworks

いかのぼり 6

 その後、私が真島先生にあったのは、それから二年後、大学の卒業式が終ってからであった。そのころ、先生はすでに大学をやめられ、T市を引きあげて、新発田近郊のK村の自宅で静養されていた。
 真島家は、かつて近郊きっての大きな地主であった。広い庭、大きく堂々とした玄関口、右側には白壁の倉が軒を並べていた。玄関をはいると、中はコンクリートの広々としたたたきになっていて、高い敷居をこえて、中にはいってゆく。
 その奥まったところから、真島先生は、にこやかに出て来られた。病気のほうもすっかりいいらしかった。ただ、ことばが不自由のところがあって、ことばがでてこない時の先生のようすは、ひどくもどかしそうであった。
 私は、卒業のあいさつと、学校のことを話すと、先生は、しきりに私の背広姿をなでながら、
「よかったねえ、よかったねえ」
 と喜んでくれた。それから私は、自分のやっている研究のことや、同じ科の友だちの話をしながら、先生の宅で一日をすごした。
 先生の歌ののっている本や白秋の筆跡などを見せてもらったり、一日中、先生もいかにも嬉しそうだった。先生も、ほんとうに歌の話が楽しそうだった。しかし、その先生の口から、
「私は、もうだめなんですよ」
「だめなもんですねえ、こんなになると」
 ということばをきくことはさびしかった。その先生のため、どういって慰めてやればいいのかわからなかった。先生がそういわれたあと、私と先生の間に、長い沈黙が続いた。私は、その沈黙をむりにやぶるように、歌や学問の話をし続けた。しかし、それもすぐとぎれると先生はきまったように、
「だめなもんですねえ、こんなになると。私の病気は脳軟化症といって、幸い年がまだ若いので助かったのですが、こんど病気がおきたら、もう死んでしまうでしょう」
 というのであった。そういう先生の顔には、いい知れぬさびしいかげがよぎるような気がした。先生の死ということが、はじめて実感として私にせまってきた。その時は、なにをおいてもまっさきにかけつけなければならない。私はそんなことだけ執拗に思いつづけた。
 その後、私は、かつて先生と一緒に短歌を作っていたという、近くの町の市村氏を訪問した。市村氏は、私の知らない先生の面影を知らせてくれるかも知れない。私は、ひそかにそれを期待して氏を訪問した。
「先生は、多磨でも一部の歌人でして、古い方です。多磨が白秋によって出されたのが、昭和十年ですが、十一年には、先生はもう東京にいないで、故郷の方にかえっていました。大地主である真島家の長男として、責任があったからでしょう。歌は、農村に取材して、すきとおるような美しい歌でした。先生は、ほんとうに心から歌が好きな人でした。歌会になど出たときには、親切に歌を見てくれました。
 でも、先生は、中心になって動くというようなことが嫌いだったようです。そのころ、多磨の支部結成の話がでても、先生はなかなか動いてくれませんでした。性質があまりに純粋すぎたといってもよいでしょう。そのために世渡りは、あまりうまい方ではなかったようです。しかも時代が急迫して、歌も戦意向上のために作られるべきだという時代です。
 歌だけでは生活はしていけず、先生も一時女学校の先生をやったりします。まもなく白秋は十七年になくなってしまう。先生は『白秋先生が死ねば、もう私の歌を見てくれる人はいない』と口ぐせのようにいっていましたよ。そのころから歌を作らなくなったようです。そして終戦、このあとの農地解放で、先生は大きな痛手をうけたのです。たくさんの土地を手放さなければならなかったわけです。いうなれば、先生のような純粋な人が生きていこうとするには、ふさわしくない時代だったということかも知れません」  市村氏は、こういい切って、ちょっと話をやめた。真島先生が、自分の歌の道だけを純粋にのばすには、あまりにもいろいろな障害があったということだろう。私もこのことばに大きくうなずいた。わずか二年間という短い期間ではあったが、先生の人柄に接してみて、この市村氏のことばに、心から同感できるものがあった。
 氏は、そのあと、『多磨第一歌集』という古い本から真島先生の歌を見せてくれた。
昭和十三年の発行によるものである。

  常臥(とこぶし)の老いに弱りて在(ま)す父に
      秋の夜長の茶を立てまつる

  栗の実のことと軒うつ朝の離屋(はなれ)
      父にはべらす母の幽けさ

  迫りくる飛雁の声にほそぼそと
      目はあかず父のわれを見たまふ

『多磨第一歌集』二十首の先生の歌の中にはこうした病床の父をよんだ歌のいくつかがあった。

  おもほえば越路も奥の野末なり
      米(よね)白う磨りてひそひそとわれは

  月の夜の雪山おろす風(かざ)おもて
      戸口明るくひと部落(むら)鳴る音

  子呂寄りてわが眉吹けばあな幽か
      米の粉散りぬ榾の火に見え

 どの歌もすき通るような美しい歌であった。そしてどことなく、さびしさが漂っていた。市村氏が「純粋な人」といった先生の人柄はこんなところから来ているかも知れない。
「それにしても、先生のことは、もっと知られてもいいはずですね。ちょっといろいろな辞典を見ても、先生の名がのっていないのは、意外な感じがします。もっとも早く歌をやめてしまったせいかも知れませんが。あなたは、先生について、調べるつもりなんですか。たいへんでしょうが、先生を知っている人なら、喜んで協力してくれるでしょう。がんばって下さい」
 最後に市村氏に励まされて、氏と別れた。これから時間をかけて、先生のことについてもっと調べるつもりだった。先生の元気なうちに。

 真島先生の死を知ったのは、その翌年六月であった。学校の同窓会報によれば、すでに三月になくなっていたのだ。

(P.72-90)

 
 >  >  >  >  > 6