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「喜左衛門家の柿」 | 第一小説集『雪残る村』

喜左衛門家の柿works

喜左衛門家の柿 3

       (三)
「二郎、これからの話は、おれがここに嫁に来てから、姑のヨシ婆さんから聞いた話だ。ヨシ婆さんも嫁にくる前の話だし、今は、だれも知っているものもない。

 二郎、お前のひいじいさまは、勝蔵というて、体が弱くて、早いうちに死んだてがんだと。
 なにしろ、五十歳くらいだったと。その勝蔵には、三人の男の子がいて、一番上の喜一郎、二番目が三九郎、そして三番目が寅次、この寅次が、お前のじいさまだ。お前は、じいさまの死ぬとき、まだ二つだった。お前がじいさまの顔を知らねえのは無理もない。じいさまが死んだとき、よその人におぶさって、それは大声で泣いておった。それはまあどうでもいいんだが。
 どうして、三番目の寅次じいさんが、この家の跡取りになったのか。それが、この話のいいたいところでのう。
 勝蔵が死んだあと、喜一郎がこの家の跡を継いだんだてや。だども、そのころのきぜんの家は、なんにせ、ひどい貧乏でのう、屋根は漏るというし、満足の薪がない、山から拾ってきた杉の葉だの、枯れ木だのを燃やしていたんだと。冬になってみい、燃すもんがないと、どんげに困るか、わしらも秋のうちに、山のようなボイニョウ(薪の山)ができると、『これでなんとか暖かい冬をこせる』と大きに安心したもんだ。二郎、よくきけや、人は、嫁をもらうとまるっきりかわってしまうてんだぞ。喜一郎もきぜんの跡とりになったんだが、そんげの貧乏な家だったすけ、嫁にけしかけられて、家中で、夜逃げしてしもうたんだと。子供もあったはずだが、みんなつれて出たんだろうのう。その時の親戚や村のさわぎがどんげだったか、考えてみれや、天井には、米俵がさがっていたんで、『こんげいっぱいの米を残して』みんな不思議がって開いてみると、それは米ではなく、もみがらだったんだと。喜一郎も、家の貧乏をかくすがんに、だいぶ苦しんだがだろう。家中が夜逃げして、勝蔵のつれあい、こと婆さんひとり残されてしまった。この婆さんは、中風で、体がきかず、夜になると、たったひとりで泣いてばっかいたんだと。親戚衆は、『これはおおごっだ(大へんだ)』というがんで、そのころ、蚕の先生をしていた三九郎に、家へはいってもらうようたのんだ。蚕の先生てば、今の養蚕指導員みたいなことにあたるだろうかのう。三九郎は家にはいりたくねえというし、しかたなしに、三番目の寅次じいさまに家にはいってもらったがんだ。じいさまは、そのころ上州(群馬県)のすだれ屋に奉公しておった。じいさまは、体が弱くて、あまり百姓はできねえから、こんなところで生活してゆこうとしてたんだろうかのう。手先だけは器用だったすけ、すだれを編んだり、提灯をつくったり、それだけじゃない近所の屑繭を買って商人に売ったり、柿渋をつくったりして、細々と暮らしていくことになった。人から田んぼも借りて、少しくらいは百姓もしたろう。お前も、この家を、人がちょうちんやとよぶことも知っているろう。これは、じいさまのころの名残りだ。だどもじいさまは、字が書けねえで、弓張り提灯のような字のはいったりっぱな提灯は作れねえかったと。
 人間ちゅうもんは、いつどうなるかわからねえもんだのう。じいさまが、そうしてやっとのことこの家にはいってまもなく、思いがけず、喜一郎が病気して帰ってくることになったがんだ。今でいう肺病で、もう動けなくて、人に担架にのせてもらってやっとのこと、帰って来たてがんだ。どっげな貧乏な家でも、最後にたよるところは家しかねえがんだがな、二郎、家を絶やしちゃおしまいだぞ。どんげな家でも、この家をはじめて建てた先祖さまが、そりゃ苦労したんだねか、その気持ちを忘れちゃおしまいだぞ、どんげの貧乏の家でも、この家を絶やさねように、ずっと後々まで続けてゆく、これが、この家の者のなんといってもつとめだと思わにぁあかん。じいさまも三番目のおじでいながら、この家を継いだがんも、これをよく知っていたんだと思うとる。親類衆は、喜一郎みていの、親不孝もん、家になんていれらんねえと、ごうぎに反対したてや。それは、そうじゃろう、病人の婆さんを家へひとり残して、だれにも話さず、夜逃げしてしもうたんだんがのう。どこで、どんなくらし方をしていたのか、決して、いい暮しじゃなかったんだろう。嫁とは別れる、子供も早死する、寅次じいさまはよくできた人じゃのし、『困った時にゃお互いさまだ、そこが家のありがたさだ』と親類衆に頭をさげて、喜一郎を家へ入れてもらったんだてや。喜一郎だって、真からの悪人じゃねえかったんだろう、嫁にそそのかされて、つい家を出てしまったんだが、その時にゃ、どんげに嬉しかったろう。喜一郎もほんに気の毒なんだったのう。だすけに、死ぬとき『こんど、生まれてくる時にゃ、きっとこの家のためになるぜ』というて、死んでいったてや。病気で体も動かねえ、そのことばが、寅次じいさまへのお礼のことばだったんだねえろうか。喜一郎も、自分の生まれた家で死に、ここの家の仏様になって、考えてみれば幸せもんだったかも知れねえ、なにせ、まだ四十を少し過ぎたばかりだったてや」

 高校二年になって、二郎は、とりの口からこの話を聞いて、大きな驚きをもった。二郎が生まれ、現在まで生きてきた、この喜左衛門家に、喜一郎は生まれ、ここで死んでいった。二郎の生まれる前に、この家は存在していたし、そこに彼と同じ血でつながっている人たちが生き、悩み、死んでいった。それは当然なことであった。しかし、二郎は、このちっぽけな家に、国や民族と同じような歴史があることなど、考えても見なかった。まして、この家の中で、二郎の見たこともない人たちが、話したり、食事したり、また悩んだり、対立したりしていたことなど、想像することもなかった。今、とりの話に出てくる喜一郎も寅次も、二郎にとっては話に聞く以外のなにものでもない。それは、いわば、同じ国のどこか遠いところで起こる日々さまざまな事件の二郎には全く関わりない人物と同じはずなのに、二郎が、喜一郎や寅次の血を受け継いでいることを知るだけで、大きな興奮をもたらした。喜一郎も寅次も、なんと親しみのある、懐しい人物であろう。二郎は今、そのとりの話に出てくる人物に、面とむかって話しかけたい衝動にかられた。二郎にとって、家とは、彼のもの心つく時をもって始まり、彼の死とともに、永久に消滅するような錯覚をもっていた。祖父から親、そして子、孫、ひ孫と、二郎もまた過去から未来に連なる悠久の時間の中で、喜左衛門家の歴史の一場面に立っていることをはっきり確認することができた。
 高校二年の夏、二郎は栗ノ木沢部落の草分けにあたる家を訪ねた。喜左衛門家の歴史への極端なほどの興奮が、この家の祖先を調べさせようとしたのだ。その主人は、タンスの奥から、一枚の大きな古地図を二郎に見せた。「天和」という年号のはいった地図であった。主人は、地図を広げながら、このころ栗ノ木沢部落の戸数は、今の半分もなかったと話してくれた。ひどくくずされた文字は、高校生の二郎には全く読めなかった。しかし、二郎は、長いことかかって、現在の家のある場所に、「喜左衛門」という字があり、その傍に小さく「名子」という字のあることを続みとった。けれども、二郎には、その意味がわからなかった。

名子 農奴または隷農の一、中世以降、一般農民より下位に置かれて、主家に代々隷属して賦役を提供した農民。同様に奴婢をもいう。

 二郎が、急いで家に帰って、ひいた辞書にはこのように書かれてあった。屋号は、先祖の名からとって付けられるものが多かったのだとしたら、喜左衛門は、この家の祖先に違いない。「名子」の二字は、二郎の気持ちを高ぶらせた。天和という年号から現在まで、およそ三百年の間、この喜左衛門家は、いったい何代続いで、勝蔵、喜一郎、寅次、そして広作ときたのであろう。そしてこれから先、何代続くことになろう。むろん、喜左衛門家の歴史には、わからないことが多いが、ただひとつ、この家は代々貧困の中にあえいで生きてきたことはたしかであろう。先祖の喜左衛門も、本家に仕えるよい人物として、黙々と本家の仕事を手伝って、分家させてもらったのかもしれない。土地も資産もなく、ただ人柄のよさから人々にもてはやされ、貧困に苦しみながらも、営々と今まで、この家を守りつづけてきた。この家をうけ継ぐものたちが、ここからぬけ出そうとどんなに苦しんできたか、このすすけた狭い家の中に二郎は、そのあえぎがこもっているような気がした。今、二郎が体験している貧困よりも、より大きな苦しみの中に、これらの人たちは、精一杯生きぬいてきたに違いない。二郎は、今、その血を受け継いで、ここに生きている。家ほど不思議なものはない。そこに古びた一軒の家を除いて、残すべき記録もことばも、どれだけあるというわけでないのに、ほんのわずかな文字やことばで、そこに願いでも苦しみでも、自由に想像して、会ったことも話したこともない人たちなのに、旧知の人のように懐しく話しかけてくる。この狭くるしい、古い家にこもっている祖先の人たちの願いを、二郎は、今全身に感じとることができた。
 その年、夏休みの終りに、二郎は、一冊の本を書きあげた。題して「喜左衛門家記録帳」和紙をこよりでとじて、作ったものに、慣れない下手な筆字で書きあげた。

 「喜左衛門家は、先祖が、この家を建てた時から、貧困にあえいできた。この書をひもとくならば、だれもがそれを痛切に感じとるに違いない。たしかに、この家には、後代に伝えるべき資産も土地もない。屋根のおちくぼんだ低い茅屋、山すそに開けたわずかな棚田、これだけがすべてである。ただ、私たちは、もっとたしかで、貴重なものを受け継いできた。どんな困難や貧困であろうとも、それにうち勝ち、のりこえてゆく力である。これは、後代の喜左衛門家の人たちに受け継がれ、必ずやこの家を興してくれるに違いない。それは、この書を編むにあたっての、切なる願いである」

 この序に、二郎は、こう書いた。先祖のことから、勝蔵、喜一郎、そして寅次、広作と、それらは、もちろん聞き書きが中心であったが、そのために、二郎の知らなかった家も何軒かまわった。遠く県外に出て、今はすでに消息の絶えている親戚をも、なんとか連絡をとってみたい衝動にかられた。まるで、ものにつかれたように動きまわった。二郎は、その中で、自ら生きる道を必死に捜そうとしているようであった。

 
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