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「喜左衛門家の柿」 | 第一小説集『雪残る村』

喜左衛門家の柿works

喜左衛門家の柿 6

       (六)
 二郎は、まもなく結婚する身であった。このころになって、二郎は、自分が生涯住む場所について思うことが多かった。昔から、農家の二男は、自分の家には住めなかった。本家の田畑を分けてもらって、細々と小作の生活を余儀なくされるか、都会に働き口を求めて、そこに家をたて、老いてゆくことになっていた。むろん、教員という道を選んでしまった今の二郎には、都会に出て、はじめは借家ぐらしをして、一生かかって小さな家をたて、そこに老いてゆく道しか残されていない。この新築なった喜左衛門家は、敏一が結婚して、その子孫たちが、家を継いでいくであろう。二郎は、それで満足していた。自分は、この家には住めない身なのだ。しかし、それでは、二郎は、どこに住んで、どこで老いたらよいのだろう。町の郊外には、新しい住宅地がどんどんふえている。山を崩し、先祖から伝えられた田畑を埋めたてて、原色をふんだんに使った屋根、家のまわりの小さい植えこみ。どの家も、同じ作りをもち、妻と二人くらいの子の四人ぐらし。人々は、そうした生活を求めていた。マイホームということばには、人々の切ない願いがこめられている。人が一代かけて建てたこのマイホームは、あと三十年ほどたち、子の代になったとき、どう変わるのだろう。おそらく、子供はこの父の家をすてて、新しいマイホームをたてるに違いない。五十年、百年後のこの新興住宅地は、人の住まない廃屋が、ゴーストタウンのように残っているに違いない。人が一生の願いをこめてたてたこの廃屋は、厄介な廃棄物として、その処理に都会の為政者を困らせるに違いない。それが「家」と呼ぶものなら、たしかにそれもまた確実に「家」に違いない。そこには、家の長い歴史の中の一区切りの親と子が短い間、生活を共にするにすぎない。喜左衛門家は「名子」としての先祖から広作にわたる長い年月――それは栗ノ木沢部落の中では、いつも下層階級であったはずだが――を経て、続いてきた。どんなに貧しい、ちっぽけな家であっても、家は、祖父から子へ、子から孫へと、鎖のように連綿と世代が続いてきた。「家」とは、もっと大きく豊かに、人の心に語りかけてくれるものではないか。何階たてといわれる豪華なマンションにあるのは、厚いコンクリート壁で区切られた親子の仮の住居にすぎない。子が成人すれば、また子は別の場所で親と断絶したところで、彼らの家をつくるであろう。二郎の考える家とは、時間的にも場所的にも区切られた「家」ではなく、連続した「家」の重さであった。二郎は喜左衛門家の「重み」を伝える家に、生涯生き続け、その家の苔むした墓の中で永遠に眠ることに限りない憧れをもった。それを考えることは、彼にこの上ない安堵感と、深い満足感を与えた。それさえかなえられれば、あらゆる世俗的な地位や名誉も、金もいらないと思った。まだ二十代後半になったにすぎない二郎は、故郷の家の墓に、深々と眠りたいと思っていた。
「もし、ゆるしてもらえるなら、この家は、俺の手にまかせてくれないか。家は、長男が継がねばならぬということはあるまい。もともと、俺は、都会には住めない性質だし、どうせ村に住むなら、自分の生まれた家に住み、その家を守って、老いてゆくのなら、俺は本望だ」
 二郎は、こういう相談の手紙を敏一に送った。
「長男として生まれた俺は、いつも家の亡霊に悩ませられた。長男は家に残れ、長男は、親のめんどうを見れといわれて、どれだけ俺の心の重圧になってきたか知れない。教員になった今、いつまでも村にくすぶっていては、うだつがあがらない、教員としての野心もある。それに妻は、都会育ちで、とても家にはいるような女ではない。君がはいるといえば喜んでそのすべてを君にまかせたい。父母もきっと喜んでくれるだろう。喜左衛門家発展のために、君の力に期待する」
 敏一は、折り返し返事をよせた。
 二郎の結婚相手の加奈子も、二郎さんがその気なら、喜んで家にはいると同意し、二郎は、この喜左衛門家七代目の後継ぎになることが決定した。そのあと、二郎は、久し振りに家に帰った。
「この家の跡をとるのは、だれでもいいこてや、いつも兄がとるというきまりがあるわけでねいし、ほうして、なあ(おまえ)が、このあとを継ぐとかい」
 広作もとりも、驚いたようにこの二郎の申し出をうけた。
「はじめは、まだ外へ出ることがあっても、最後には俺がこの家へはいるぜ」
「そうかい、おらも、この家で安心して死なしてもらえるかい、この部落にも、年よりばっか残っている家も何軒もあるし、東京へ年よりをつれていった家もある。でも、いんな(みんな)生まれる家がいいらしいのう」
 とりは、嬉しそうにいった。広作もとりも、長いこの二人ぐらしであった。二人ぐらしにはなれていたが、やはり、子どもが家にはいるまで心配だった。二郎の話に、とりも広作も信じられないといったふう[このままでいいのでしょうか]して、笑いあった翌日、朝早く、二郎は、ひとり喜左衛門家の新しい家の裏山にのぼった。雪におしつぶされた去年の枯れた茅が、地面に敷かれていた。気の早いまんさくの花が優しく咲き、たらの木の鋭いとげの枝先から、青い柔らかい芽が吹き出ようとしていた。細い道は、雑木の枝に行く手をはばまれ、木の枝を両手で払うようにしてのぼった。のぼりきると、丘の上から故郷の狭い平野を眺望できた。ゆるやかに蛇行する川の両岸に一面の水田がひらけ、低い丘陵にかかるところに、家並がよりそっていた。なだらかな山脈のうねり、寺の屋根の曲線、川が運んできた観音像をまつってあるという観音堂の茅屋根、それは、二郎が育った時とかわっていなかった。この地に生涯住めるのだと思うと、二郎は、あらためて喜びがわいてきた。
 二郎は、この地で喜左衛門家七代目の当主となり、一方では、この愛すべきこの地の小さな文化運動にも寄与したい気持ちであった。彼の出せる力は、むろん限られてはいるが、その力のすべてをこの運動に傾けても悔いはないと思った。むろん、それは、二郎の胸の中で確固とした形をなしたものではなかった。しかし、それを考えることによって、彼自身はひとりで興奮し、体のあつくなるのを感じた。この地で、彼の情熱を静かに燃焼し尽くして老いてゆくほかは、今の彼に、どんな野心も欲望もなかった。教員になったのなら、校長にならなくてはうそだとか、彼の余暇に書いている小説と名のつく生きてゆく記録の中で、一つ傑作をものして人々を驚かせてやろうとか、彼と同じ生き方をする人であれば、だれでも持つであろうひそやかな野望といったものとは、まるで無縁であった。まだ人生の開花期ともいえる、二十代の後半において、二郎は、まるで生涯をすっかり悟りきったような安らかな気持ちで眺めることもできた。どうせ喜左衛門家の血を引いているものが、何をできるものでもないといった、あきらめのような考え方が、深いところで二郎の生き方を決めていたのかも知れない。
 春耕期には、まだ間があった。田を渡ってくる風は、彼の立っているところへは、下から吹きあげてきた。二郎のほてった頬には、それがかえって快く感じられた。

 翌年、二郎の結婚式は、近くの旅館に、村の親戚の人たちを大勢集めて行なった。敏一の結婚式が、N市の結婚式場で、同僚の教師や校長を多数集めて行なわれたのと対照的ともいえた。
結婚式に出席した村の人たちは
「おめえさん、あんさまがはいらねてがんに、家のあとをつぐなんて、親孝行しるのう、ここの家のとうちゃんも嬉しいろう」
 と、この二郎のことをほめちぎった。二郎は思いがけないところでほめられた気がした。

 
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