本文へスキップ

「竜の住む池」 | 第一小説集『雪残る村』

竜の住む池works

竜の住む池 3

 酒くさい息を吐きながら、浩が帰ってきたのはそれからしばらくしてからであった。
 酒が入っているせいもあって、布団の中に入ってからせめるように私に話しかけてきた。
「渡辺、若い日は二度と来ないぞ、楽しめる時は楽しんでおくんだ」
 そういって、浩は恋人の小夜子と二人でバーをまわったのだといった。
「恋愛なんて、将来の結婚のことまで考えてする奴は馬鹿なのさ。そんなことを考えていたらとてもできるもんじゃないよ。俺だって小夜子を将来のワイフなどと考えたことはないよ。遊び友達さ、女なんてこっちから少し熱を入れたように見せかければすぐ夢中になるものさ」
 それはまるで自分の話を自分で楽しんでいるような口調だった。
「たかが学校の先生になるだけのことじゃないか。お前のようになんの楽しみもなく、机に向って、やれ研究だの、調査だのといったってはじまらない。もっと要領よく世の中を渡ることだ。どこかの校長に少しでも早くなれたらそれで充分じゃないか。大学だって、今はもう就職の手段にさえなっているんだぜ。君は要領の悪い男だ。そんなことでは女にはすかれんぞ」
 浩はこうして、いいたいことをいってしまうともう寝息をたてていた。「要領の悪い男だ。そんなことでは女に好かれんぞ」という浩の投げつけるような最後のことばはいつまでも私の心の中に残った。浩のような生き方に強い反発は感じても、若い人たちの群からとり残されてゆくようなさびしさをひしひしと感じた。だれもやったことのないことを成し遂げ、世に名を広めるだけの力も財力もないこの弱々しい私が、小さな学校の教師として生きようとしたことは他に道がなかったためである。そして学校の教師としてのささやかな自分の人生を刻んでいこうとするのと、自分のやっているこの小さな仕事とはどう結びつくのであろう。どうかすると、私のやっていることが、何の意義ももたない、無駄なことのようにさえ思えて来た。浩のそれとはちがっても、弱々しい自分のためにけなげな愛を捧げてくれる美しい女性から愛されてみたいと思った。その女性とマッチ箱のような小さくても幸せな家庭をもって、その小さな幸福の中で自分の生涯を埋めてもよいと思った。まだ遠い未知の世界がある羞恥をもって思い出され、私の心をうずかせた。加代子の白いうなじややわらかい髪の匂いが急激に私の頭の中を占領した。「私には加代子がいる、そうだ、私には加代子がいる」浩の寝息が安らかにきこえる中で、私は小さい、小さい声でそうつぶやいた。

 
 >  > 3 >  >  >  >