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「竜の住む池」 | 第一小説集『雪残る村』

竜の住む池works

竜の住む池 6

 執行委員の改選が告示されると加代子はすぐ立候補した。そしてその責任者が義一になっているのも見た。加代子としてはむしろ当然すぎるのだとは思いながら、義一が責任者となっていることは、加代子と義一との関係を物語っているような気がした。
 その日私が図書館から出ようとした時、後で、
「渡辺さん、どうしよう、困ってしまったわ」
 と加代子が話しかけてきた。ふりかえると、加代子は少しあおざめた顔で立っていた。
「私なんかできないというのに、むりやり立候補させられたんですわ。みんなにいわれると私って、なんにもいえなくなるんです」
 加代子はなぜこんな相談を私にするのだろう。私ははじめなにか皮肉な気持できいていた。しかし、加代子の悲痛な気持はいつのまにか私をうごかしていた。私から去っていた加代子が傷ついて帰ってきたのだ。私と加代子はだれもいない部屋に入った。
「いいじゃないですか、僕も賛成します。執行委員にあなたはだれよりも適していると思います」
 私もやはりこういうより他はなかった。加代子が哀れだと思った。あの激しい渦の中に純粋な加代子をまきこませたくないと思った。しかし、そうかといって加代子に立候補を断念するようにすすめることはとてもできなかった。加代子は傷ついて私のところへもどってきたが、その傷にかこつけて、私のもとに引きとどめておくほどエゴイストにはなりたくなかった。それに私はそれほどの力ももたなかった。
「口では偉そうなことをいっていても、私ほんとに弱いんです。だれか人に頼らないととてもやってゆけないのです」
 加代子のことばは悲痛な訴えのように私にひびいた。
「私って結局一人なのだわ。ほんとに一人なのよ」あの餅の焼ける匂の中で彼女のいったことばは今私の頭の中によみがえった。できるならばこの加代子の孤独を力強い暖かいことばで励ましてやりたかった。大きな厚い胸で抱きしめてやりたかった。私にはその時ほど無力な弱い自分が口惜しかったときはなかった。薄暗い部屋の中で私も加代子もだまりこくったまま話さなかった。加代子は机の上にのせた両手の中に顔をうめて、小さく肩を震わせて泣いていた。髪から肩にかけてのうなじだけが白く美しかった。そしてその白いうなじも小さく震えているような気がした。私はどうやってこの加代子を力づけ、励ましてやったらよいのだろう。激しいコンプレックスが私の全身を覆った。それに自分の体の中に起こって来る自己嫌悪とも戦わねばならなかった。
「なにもあなた一人が執行委員というわけじゃないし、みんなの力を合わせていけばできないなんてことはないさ。これからはいろいろ苦しいこともあるかも知れないが、あなたのためにきっとプラスになることがあると思うよ」
 私はやっとのことこれだけいった。加代子はもうなにもいわなかった。しばらくしてから加代子はおもむろに立ち上がって、
「渡辺さん、悪かったわ、心配かけて。私もよく考えてみますわ」
 といって、うつむいたまま私から去っていった。私はそれからいつまでも暗くなりかけた部室のむなしさの中ですわったまま動かなかった。
 その夜、私は布団に入っても眠れなかった。薄暗い部室の中で泣いていた加代子の少女のようにほっそりとした姿が、幾度も幾度も浮かんでは消えていった。土器の話のときに、
「あの瞬間が私をとりこにしてしまったのですわ」
 といった時のあの輝いている瞳。私の部屋で、
「私って結局一人なのだわ。ほんとうに一人なのよ」
 と訴えるようにいった加代子。
「私たべることには負けませんわ」
 というときの茶目な少女のような顔。その加代子がまた、
「岸首相なんて殺してしまえばいいんだわ」
 と平然といい放ったのだ。
 茶目な少女のようなところがあるかと思えば、私などの及ばないずっと大人の世界も知っているような加代子。いったい加代子とはどんな女性なのだろう。どれがほんとうの加代子なのだろう。私に向かっていった加代子のことばはそして次々と消えていった。しかし、その中でほんのついさっきまで、私の前で泣いていた加代子の姿だけはいつまでも消えなかった。浩の世界にも義一の世界にもはいれなかった私は、その間でもがいている一人の弱い女性をもどうすることもできなかった。力のない、弱い自分をここでも確認した。深い谷間におちこんで身動きのできなくなった自分を知った。加代子はもう私の手から去ってしまったと思った。心の底から噴きあげてくるような悲しみが私を包んだ。私が若い一人の青年として、社会の中の一員として生きてゆくにはどうすればいいのだろう。その強い疑問は同じところをぐるぐるとまわったまま、少しもとけなかった。とけないばかりでなく、いつのまにか鎖のように私の体をしめつけてきた。
「俺の弱い力ではどうにもならないのだ。社会に生きていくために、俺の力はあまりにも弱すぎるのだ」  暗い闇の中で私はつぶやくようにいった。それは幾度も幾度も私の頭の中で反響しながら暗い闇の中に消えていった。悲しい弱々しい訴えだった。それから私は布団に顔をうめたまま、黙って泣き続けた。

 
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