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「竜の住む池」 | 第一小説集『雪残る村』

竜の住む池works

竜の住む池 7

 翌日、私は一人で中頚城郡の山間の部落に出かけた。考えて見るともうずいぶん長い間私の民話探訪はなされていなかった。民話なんてのんきなことをいっていられないほど社会の動揺が激しかったためか、私自身の心の動揺が激しかったためか、ともかく私の民話ノートは本棚の片すみにおしやられたまま、ほこりをかむっていた。
 そのノートと地図と鉛筆とをカバンにつめると私は宿を出た。私の行くところはバスで一時間位ゆき、更に一時間位歩く山間の小さな部落だった。この部落には坊が池という大きな池があって、ここに不思議な伝説が伝えられているということであった。もうすっかり秋も深まっていた。全山紅葉した山が覆いかぶさるように部落のすぐうしろにせまっていた。山のひだにかくれるように小さな何軒かの茅葺屋根が見えた。
 紹介された老人の家に行くと、その家の人達はこの珍客をけげんな顔をして迎えながらも、話しだすといつのまにかすっかりうちとけていた。もう七十三才というこの老人はあごには白いひげがのびていた。 「お前さん、若いのに感心だのう」
 といいながら、老人は顔中しわだらけにして笑った。この老人の笑いが好きであった。かっていろいろな部落を訪ねて回りながら、いままで暗い家のすみでひっそりと忘れさられていた老人たちが笑うのを何度も見た。私はもう自分が若い人の群からとりのこされたさびしさなどすっかり忘れていた。そして今までとは全く違った素朴な明かるい笑いの中にこおどりしながら入りこんでいった。老人の話してくれた話は次のようなものだった。

 昔、この部落に大きな金持の家があった。そのころの部落にある池はまだほんの小さい池であった。金持の家はその池の近くに立っていた。ある日、その家の嫁が木かげで昼寝をして  いると、大きな角の生えた竜が池の中から出て来て、体の中に入る夢を見た。それから嫁は身ごもって丈夫な男の子を生んだ。家でははじめての子なのでみんなが「坊、坊」とよんで可愛がっていた。その男の子が大きくなってから、ある日のこと、
「俺はざしきで昼寝しているから、どんなことがあっても見ないでくれないか」
 といってざしきに入るとピタリと戸をしめてしまった。家の人たちはふしぎなことをいうものだとみんなが話しあった。しばらくみんながまんしていたが、そのうちにもうがまんできなくなって、かわるがわる戸のすきまからのぞいてみた。するとそこにはすでに男の子の姿はなく部屋いっぱい青い水が満ちて、そのまん中に大きな角の生えた竜がよこたわっていた。家の人たちはおそろしさにだれもものがいえなかった。男の子がざしきからでてくると、もうざしきには水もなく、もとどおりになっていた。
「俺があんなに見るなというたのに、どうしてみたのだい。俺はもうここにはいられない身だ」
 といって、男の子は家を出ると、池の奥深く沈んでいった。そして池は今のような大きな池になり、村の人たちは坊が池とよぶようになった。その後、いままで金持だった家もすっかり貧乏な家になってしまった。坊が池には今でも竜がすんでいて、池の中に金物をなげこむと怒って村に激しい雨を降らす。又雨の降らないときはこの池の岸で雨乞いをすると必ず雨が降る。

 その話をきいてから、私は老人の家で昼飯を戴いて、中学二年だという家の和弘君と二人で坊が池におもむいた。部落から離れて急な斜面を二十分も登っただろうか。すっかり紅葉した樹木の間から赤さびた鉄の水門が見えると、それから少しずつ暗い紺碧の水をたたえた坊が池があらわれはじめた。美しい秋空であった。池の水面にはかすかに波が立って映っている灌木が小さくゆれていた。そしてむこうには深い秋の空が広がっていた。池の岸に立つと、私も和弘君もしばらく動かなかった。実に静かであった。かさかさと風で鳴る枯葉の音と野鳥の高い鳴き声の他は何の音もしなかった。その静けさにのまれたように私達は何も話さなかった。
 この深い山の中に、この池は古い時代からこの死のような静けさを保っているのだ。この神秘的な静けさの中で、水の神の化身としての竜は人々に実感をもって迫ったのであろう。その実感は親から子へ、子から孫へと不思議な伝説を伴って伝わってきた。今この池の岸に立って、その遠い古代がひたひたと波のように私の心の中にせまって来た。広い部屋の中に青い水が満ちていて、その中に大きな竜がよこたわっている。――さっき聞いてきた話をもう一度くりかえしながら、私は妙にこの部分にひかれた。この部分は坊が池の伝説の中心の部分であり、話す人も聞く人ももっとも力を入れて語り、かたずをのんで次の話をまっていたであろう。この部分はたしかに小さい子供たちにとって、もっとも恐れる部分であろう。しかし、それと同時にここにはそれと違ったなにか美しい大きな夢がひそんでいるような気がした。この池のような紺碧の水が部屋の中にいっぱいみちて小さく波うっていたであろう。そしてそこには人々の見たことのない奇怪な竜がよこたわっているのである。それこそ今まで社会の表面に一度も現われたことのない、人々の作り出した偉大なロマンなのである。和弘君と二人で池をまわった。二人が枯葉をふむ小さい音がした。小高い丘に腰をおろすと、陽の光が水面に反射してキラキラと輝いていた。その時、隣にすわっていた和弘君は突然たずねた。
「この池の底に竜なんてほんとにいるんですか」
「もちろんいるはずはないだろう。でもこういう静かな池の岸に立つと、この深い紺碧の水の底にことばでいいあらわせないなにか不思議なもの、人間の力の及ばないものがいるようなきもちにならないかい。昔の人たちはそういうものを竜のような大きな恐しいものと考えたんだろうね」
 私は力を入れてこう答えた。竜なんてこんな池にいるはずはない。しかしその時の私はそう頭からきめつけたくはなかった。そうきめつけたとき、昔の人たちが口から口へと語り伝えてきた話が消滅してしまうと思ったからである。和弘君はだまってうなずいたまま、光っている水面を見ていた。
 和弘君と二人で池の面を眺めながら、私は自分の体中にいままで感じたことのない不思議な力がわき上ってくるのを感じた。この部落に最初に人がすみついてから、これらの話は次々と新しい世代の人たちにうけつがれ、その人々の胸をあたため続けて来たのだ。社会がいくども大きな動揺をくり返し、少しずつ新しい方向に向って動こうとしているときでも、人々は決して自分たちのロマンを捨てはしなかった。常に社会の底辺にじっとたえて生きてきた力の弱い人たちなのに、自分たちの話をしっかりとうけとめじっと生きているではないか。強い感動が改めて湧き上ってきた。それは今までよんだ書物の中の感動とちがって、深々とした暖かい感動だった。
 考えてみれば浩のように社会をすっかりわり切ってそれをすいすいと乗り切っていくこともできず、義一のように社会をよくするのは青年たちだといって勢いよく自らの信ずる道に進んでいこうともせずに、要領の悪い無力の私だった。しかし今その私にもなにか小さくはあるが、ほのぼのとした自分の生きる道を見つけたような気がした。この話を古い昔から次々と伝えてくれた人たちのように、私も又その話を後世の人たちに伝えてやるのだ。
 社会がある方向に激しい勢いで進んでいるとき、その間に忘れ去られ、とりこぼされた小さな落穂を拾うのだ。そしてその踏みにじられ、泥にうまった落穂が必要な時が必ずやってくる。
 私はそのとき、ふと加代子のことを思った。あの入部歓迎会の席で、
「こんどの折、いつか連れていってくださらない」
 といった加代子のたのみがついに果されないでしまったことに気づいた。これからももうそんな機会は決してやってこないだろうと思った。それを思うとやはりさびしかった。池の面を吹いて来る風がつめたく私を包んだ。
「もうそろそろおりませんか」
 和弘君が思いついたようにいった。
「そうだな、おりるか」
 私ははっとして答えた。帰りは急な下り坂だった。勢いよくかけていく和弘君におくれまいとして、私もまた子供のように夢中で坂道をかけおりていった。

 
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