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「雪ごもり」 | 第一小説集『雪残る村』

雪ごもりworks

雪ごもり 3

「そりゃ、十七年間もこんな仕事をしていれば、いろいろな先生を見ていますよ。今までの私の人生の半分をこの学校ですごしているのですから。私がここに来たのは二十六の年ですが、あのころから見ると、先生もずいぶんかわりました」
 沢木の宿直の夜、田代は、お茶をつぎながら話しだした。学校の仕事が一段落すると、宿直の先生にお茶をついで、たいてい夕方おそく田代は帰ってゆくのであった。
「以前に比べると、先生があまり動かなくなりましたね。いつも教務室にとじこもってお茶をのんだり、話をしたりしていて、生徒のことなどあまりかまわなくなりましたよ。教室の窓ガラスがわれていても、生徒のいすがこわれていても、いつまでも私のところへ話がこない。自分は勉強さえ教えていればいいというんでしょうかねえ。子供の困っていることなんて、まるで眼中にないみたいですね。先生はどう思います」
「おじさん(花村小中学校職員での田代の呼び名である)は、そういうけれども、町の大きな学校にいて、こちらにやってくる先生たちにいわせれば、むりないところもありますよ。まして、この土地の事情もよくわからんのですから」
「それはむりないかも知れません。でも、この地にやってきた以上、ここの先生になりきってもらいたいんです。三年たてば、町へ帰れるというんでしょうか。いつも町の方をむいて毎日の仕事しているみたいなんです。これじゃ、ほんとの教育はできないでしょう。私には教育のむつかしい理論なんかわかりませんが」
 このことばは、十七年間もこの花村校にいて、いろいろな教師に接している田代の深い嘆息のようにきこえた。
 花村小中学校に勤務している十二名の職員のうち、地元M町の職員は四人だけで、校長をはじめ、あとはすべて上越の中心からやってきたり、中越との人事交流でやってきた職員であった。もちろん花村、杉沢の部落出身といえば、用務員の田代の他はいなかった。こうした職員たちは、三年たてば必ずこの地から去っていった。だから三年たつと、大半の職員がかわってしまうことが普通だった。
 こうした中で、花村小中学校のことをもっともよく知っている人は、田代の他にいなかった。
 実際、この一カ月、沢木は、田代のよく動くことには驚いた。窓に入れるガラスを切っているかと思えば、水道管をつないでいる。教務室の雑物を山とつんで整理しているかと思えば、鉛筆をなめなめ、部落の給食手伝い表をつくる。ここでは学校の給食のために、毎日ふたりずつ父母の応援をたのんでいた。腹がいたくて泣いている一年坊主を家に届けたと思ったら、職員に手伝ってがり版印刷をする、田代にきまった仕事といえば、給食手伝いくらいなものだが、それでいてじっとしていることがないのだ。
「先生は、自分で教務室にこもりきりで、いくら生徒だけ叱ったところできくわけはありませんよ。掃除だって、作業だって、まず自分でやってみて、はじめて教育が行なわれるんじゃありませんか。偉そうな口をききますが」
 田代は、徹底した体験主義を主張する。教師も生徒と同じことをやってみなくては、生徒の気持ちなどわからない。沢木がいままで学校で指導されてきたことは、いかに生徒を動かして、教師の意図したところに近づけさせるかといったことであった。授業研究、学級経営、教育公務員としての服務といったことがそれであった。まさか、こんなところでこんな人から教育の一面を聞かされるとは思わなかった。田代のことばにはうそがない。十七年間、この地で生徒に接しての実感であろう。ずっしりとぶ厚い斧の刃のように、田代のことばが心の底深く打ちこまれた。今までの沢木が体得してきたものは、いわば教育という樹木の枝や葉ばかりだったのではないか。その下にあって、見えないところでしっかりと樹木を支えている根のあることを、田代のことばは教えていた。田代は、この地と、この学校と、子どもたちをなにより愛していると思った。それは沢木をふくめてよそ者としての教師には理解できないことかも知れない。いつもなら宿直の教師にお茶を出したあと、すぐ帰ってゆく田代だったが、この日は、沢木と長い時間話し続けても、少しも時間を気にしなかった。
 田代順三は、この花村部落に生まれた。家は花村小中学校校舎の裏を下におり、一つ低い尾根をこえてゆくところにある、村はずれの一軒家であった。田代の家に通じる道は、人の往来がやっとの細い道であった。冬燃料のはいったドラム罐や、稲の脱穀機も、みんな田代の肩で背負ってゆくのだった。もちろん、稲の肥料にしろ、重い稲束にしろ、人の背以外に耕運機のはいらない坂道がいたるところにある花村部落では、物を背負うのには慣れっこになっていた。
 田代は、十三の年、四月、この花村校をおえるとすぐ、残雪をふんで上京した。近所の人に連れられて、二十キロも雪道を歩いて駅についた。東京でのはじめての仕事は、染色工であった。その工場では、竹であんだ花かごに、色をつけるため、うるしをたくさん使った。仕事につくと、たちまちうるしにかぶれて、おたふくみたいな顔になった。まだ十三、家から出てきたばかりの田代にはそれがひどくつらかった。
「むりもないだろう、今の中学一年くらいの時だ、中学を出ている今でさえ、なかなかはじめての職場には定着しないというのに」
 田代は、あのころをふりかえって、こう思う。とうとう、お盆に帰ったきり、染物工場にはいかなかった。
 そのあと、田代がいったのは、東京浅草の食堂であった。客の注文に応じて、いろいろな料理をはこぶ給仕の仕事であった。皿の数を見て、すばやく料金を計算することが、はじめのころの田代には、ひどく苦手であった。
 なれてくると、この仕事は楽しかった。お客のおいてくれるチップも少なくなかったし、いっしょに働いている仲間と、よく遊廓にもいった。そのころ、十五円の月給で、一円も出せば、十分女と遊ぶこともできた。背の低いおかげで、軍隊にはとられなかった。戦争が激しくなると、徴用としてゴム工場で働かされた。同級生の中には、戦死したものも多いのに、人間なにが幸いするのかわからない。
 終戦の年、この地にもどり、他の人がそうするように、夏は田にはいり、冬には出稼ぎに出た。山口県の炭坑でトロッコを押したり坑夫としても働いた。この仕事は、危険だが金になった。村の人は、少しくらい体を使ってもなるべく金の高い仕事を選んだ。一度、トロッコと坑木の間に、足をはさまれて、骨をつぶしたこともあった。
 田代が、この花村校の用務員となったのは、二十六の年であった。あのころは、まだ若かった。町の教育長が、田代を「あんちゃ」とよぶのは、そのころの名残りである。もちろん、学校のことなど、生徒として学んだ六年間しか知らない。はじめは、ただがむしゃらに人にいわれるままに働いた。その間に、豪雪にうもれた二月、花村校が全焼したことも田代の記憶になまなましく残っている。すでに、あの時から、十七年、それは、彼が東京にいた八年間の倍の年月にあたっていた。もし、彼が長男でさえなければ、東京に残って小さな食堂を開いていたにちがいない。他に東京で中華そばや、食堂を開いている人がたくさんいた。今ころは、店主として、何人か人も使い、かなりいい暮らしをしていたかも知れない。田代はふとそんなことを考えることがあった。
 しかし、修学旅行についていったり、東京の子どものところへいったりするとき、「学校のおじさん」として、卒業生に会うのはたのしかった。学校時代のわんぱくぶりを披露すると、みんなてれくさそうに頭をかいた。もう何人の卒業生をおくってきたであろう。この先、ずっと用務員としての生き方に、田代は、まちがいはないと思う。給料は少なく、仕事は多いが、それなりに楽しみもあった。

 
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