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「雪ごもり」 | 第一小説集『雪残る村』

雪ごもりworks

雪ごもり 6

 田代が店から帰ると、教務室のストーブの火はすでに消えていたが、酒のはいった男の先生たちはにぎやかになっていた。どの先生の前の茶わんにも、なみなみと酒がつがれ、ビニールぶくろにはいったさきいかのつまみが、散乱していた。だれかが、低い声で歌い出すと、たちまちみんなが手拍子をとった。
「まあ、おじさんいっぱいいこうて、そんなに働かなくてもいいじゃないか」
 田代は、笑いながら、すすめられる一杯の酒をのむと、すぐ教務室を出た。今晩もまたおそくなるぞと思った。酒がはいると、そのあとしまつは、必ず田代のところへまわってきた。田代は、校長室のストーブの灰をおとした。灰おとしを使って、石炭がらをバケツにうつすと、灰がもうもうとあがった。その灰が、田代の髪から服まで白くついた。鋭いガスのにおいが鼻をつく。むろん、そうした仕事には、田代は慣れていた。手早くバケツにとった炭ガラは、雪の中にもっていってバケツごとひっくりかえすのだ。教務室の酒宴は、まだおわりそうもない。いつになったら教務室のストーブの灰はかたづけられるのだろう。酒ビンを片づけ、茶わんを洗う仕事も、結局田代がさせられる。それまで待っていなければならぬ。田代は、シャベルをもって外へ出た。生徒玄関の雪をのけてやろうと思った。
 ついさっき、店の精算にいってきた田代はその店につけられていた酒とビールの額の多いのにおどろいた。その請求書を、個人のものと、学校のもの、職員全体のものとにわけてゆくと、どれに属すのかはっきりしないものがたくさんあった。そんなことでいらいらしているところへ、店にやってきた部落の人が学校への苦情を言う。
「学校は、このごろ少しどうかしているんじゃねえか。給食の手伝い割当表にしたって、早く出してくれないと、急に出てくれといったって、こっちにも都合がある。酒をのむのもいいが、だいじなことは、もうちっとしっかりしてもらわんとこっちがめいわくしますが」
「いろいろ迷惑かけますのう、手伝い表の方も早く出すように先生にいっておきますけに」田代は、こうしてあやまるより他にない。
 これが、そうであるように、今まですべての部落の人たちの苦情や注文は、田代を通して学校に伝えられた。一方、学校のお願いは田代を通して、部落へ伝えられてゆくのである。そうした田代の役目は、十七年間という年月の中で、いつのまにか無言のうちに出来てしまったというべきであろう。
 それにしても、たしかにここ二、三年の学校の空気がかわってきていることを、田代もまた認めずにはいられない。連日、大勢で酒を飲んでは、おそくまで学校に残る。そしてその度に、田代は酒を買いに店まで走らされた。以前は、こんなことはなかった。だいたい職員全体で酒を飲む機会など、年に数えるほどしかなかった。それも、飲んだあと、必ず自分たちであとかたづけして帰っていった。
「おじさんだって、だてに(むだに)十七年も学校の小使いをやっているんじゃあるめえ。いくら先生だって、おまえの方から少し教育してもらわなくちゃ困るでねえか」
 部落の人の中には、こんなことを田代にむかっていう人もいた。学校が、田代の自由になるものとさえ考えているのだ。用務員としての田代が、どれだけ学校のことに口出しできるかということを知らない村人たちもそうだが、学校に対する非難が強まっていることは、同じ部落の人として、毎日顔をあわせている田代には、一層つらいことだった。十七年間、黙々と学校に仕えてきた田代は、これからもまた今までと同じように仕えてゆくよりほかにないのだ。生徒玄関の雪は、ガンガンに凍りついていた。こんなところで、すべって頭をうつ生徒もいるかも知れない。田代は、力いっぱい固くしまった雪にシャベルをうちこんでいった。
 雪の中に埋もれながら、沢木は少しずつこのM町の統計や歴史について調べはじめていた。これは彼が社会科の授業に使う必要にせまられて、やむをえず調べはじめたことであったが、仕事をすすめてゆくと、そんなことはすでに頭の中には消えてしまった。
 この町が、むかしから豪雪に苦しめられてきたことは、どの記録にもありありと記されていた。大雪について、昭和にはいってからでも次のような記述がある。

「昭和二年、一月十八日より二月十六日までの一カ月、止むことなく降り続き、二月七日は一日にて一メートル五十を数え、降雪実に二十六メートルに達す。
昭和九年、総降雪量二十メートル六十センチ、最高積雪日三月七日、四メートル六十センチ。一月二十日は一日にて一メートル二十センチに達す。
十二月三十一日より降り続いた雪は一月二日まで続いた。二日九時ころ、××部落喜平さんの家は、入口が曲がり、傾いており、いくらよんでも声なく、雪崩で家全体が傾いているのであった。半鐘が鳴り、大騒ぎで戸を破って家族を引出した。喜平さん、妻タカ(三十三)、長女サカエ(九)、長男利長(四)、三女ソノ(三)の一家五名のうち、サカエだけが奇跡的に助かったが、タカさんは臨月であり、五つの生霊が一夜にして雪魔の犠牲となった」

 という記述もあった。この年、M町にバスが開通したのは六月十日、七月十日でさえ、高さ百メートルのところから、幅三メートル、長さ四メートルの崩雪が道路に落下して、バスが不通になるとも書かれていた。

「昭和十二年、今年の総降雪量は二十二メートル八十センチ、六月上旬バス開通。
昭和二十年、十二月中に既に積雪二メートルをこえ、五月に至り漸く消雪、労力肥料不足大減収、加えて敗戦の混乱により食糧事情は全く悪化、甘藷の葉や茎まで食す」

 この地に住みついて以来、人々は雪に苦しみ、あえいできたことであろう。まだ記録に残らない多くの苦しみがあったに違いない。そして、これからもこの地に人が住み続ける限り、この宿命から解放されることはないであろう。沢木は、息をのんで、次々とよみ続けた。
 M町は、最近の町村合併で名前だけは町となったが、標高二百メートルから四百メートルの丘陵地帯に、四十に余る集落が点在する昔からの農村地帯であった。豪雪に加うるに平均斜度二十度という地形条件は、あらゆる面で人間の居住を困難にしていた。人口わずか一万人たらずの町に、小学校本校六、分校十二、中学校が五という数字を見ても、この町の地形の複雑性が知られよう。人口減少率は、最近五年間に十三パーセントを示し、更にその速度を早めながら、過疎化がすすんでいた。
 どの統計を見ても、このM町が、急激に変わる現代の社会の中でとりのこされていく事実をまざまざと見せつけられるばかりであった。
 M町の将来が、どうなってゆくべきなのか。この地の青少年たちに夢多き町の未来がどうあるべきなのか。沢木だけではない、他のどんな人さえも、これに答えられないであろう。
「学校では、生徒を農業につかせないような教育をしているのか」
 という質問が、家の人たちから出ることがあった。M町の統計の上では、ここにとどまることが、決して生徒を幸福にしていかないだろうと思われるだけだった。たとえ丘陵地に適した農業を考えだせることがあっても、この冬の豪雪をいかにのりきるのか。
 春のころ、沢木が訪ねた家の人は、こんなことをいっていた。
「将来のことがさっぱりわからんのです。たしかに家の子どもは長男でもあり、農業をやってほしい気もしますが、こんなところで、半年農業、あとの半年を出稼ぎという生活はもう私ひとりでたくさんです。まして今、政府は、米を作るなという。こんなところで、米以外どんなものがとれるというのです。農業をつがせるとしたら、私以上に今の子どもは苦しむことになるでしょう。なんとか生活できても嫁のきてもないでしょう。そうかといって、この地をすててむこうで生活したいというと、親が反対し、とても決心がつかないんですよ。むこうにいけば、好きな勤め口もあり、雪に苦しめられることもありませんし、住むには絶好な場所なのに、春になればやはりもどってくる。たとえどんなに不便なところでも、この地をすてるには、大きな決心がいるんです。先生はお笑いになるかも知れませんが」
 沢木には、こうした地元の人たちの気持ちがいたいほどわかるような気がした。この地に住んで、この人たちの豊かなくらしを見つけるために、いったいどんな方法があるというのだ。それは、ひとり沢木の解決できるような簡単な問題ではないこともまたたしかであった。同じ町の教師たちの中には、規模の小さい農家には、積極的に離村をすすめるという人もいた。
「この地で農業をやるには、地形からみても冬の豪雪という気候からみても、あらゆる点で他地域より劣っているんだ。そうかといって、工場誘致も、冬の交通の困難性から見るとむつかしい。わずかな耕地のために、やむなく出稼ぎして、雪が消えれば故郷にもどるという不安定な生活は、この人たちを決して幸福にはしない。そんなことより、いっそ都会に出て、一つの職についた方がどれだけ助かるかわからない。その証拠には、ここでは食えないといって、よそに出ていった二三男の方が、今ではずっといい生活をしている。先祖代々の田を守るといって、残った長男が今一番損している。今村の人に憎まれてもいい、私は将来のことを考えて離村をすすめる」
「しかし、それは先生がこの地の出身でないからいえることであるまいか。私が、もしこのM町の人であれば、絶対に離村をすすめるようなことはしない」
 沢木は、そう反論してみたが、しかし、だからといって、いい考えがあるわけはなかった。いつたい、このM町の教師として、生徒にどう教えていったらよいのであろうか。

 
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