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「雪ごもり」 | 第一小説集『雪残る村』

雪ごもりworks

雪ごもり 8

 和島たみ子の父がなくなって、何日もたたないある日、田代が給食室の重油バーナーを修理していると、中学二年になる息子の孝夫が、雪の中をけんめいに学校にむかってかけのぼってくるのが見えた。なにをあわてているだろう。あのやつ、また雪おろしがいやになって、俺に応援でも求めるつもりなのだろう。田代は、また仕事をつづけていると、
「とうちゃん、たいへんだ」
 というとぎれたような声が耳もとでした。見ると、孝夫は、顔を青ざめ、息が早かった。
「どうしたんだ、このあわてもの」
「かあちゃんが、うちの中で倒れた」
 孝夫は、それだけいって、あとのことばを切った。
「ばかな、そんなことがあるもんか」
 田代は、とっさに、激しい声で叱った。しかし、叱りながら、あわてて重油のしみこんだ服にアノラックをひっかぶって、学校下の雪の斜面をかけおりていった。道のない雪の表面は、ドボドボともぐってそのたびに長ぐつの中に雪がはいりこんだ。しかし、今それを出しているひまはない。ハツよ、生きていてくれ、田代は、それをひとりごとのようにくりかえして、全身雪まみれになって、家へむかってかけおりていった。
 妻のハツは、座敷に敷かれたふとんの上に寝かされていた。いっしょにいた人が寝かせてくれたのだ。すでに意識はなく、田代がいくら呼び、体をゆすっても返事はなかった。じっと目をとじたまま、両方の目じりにしわがよって、時として、それはわざと目をあけまいとしているように見えた。右半身だけがひっきりなしに動いて、田代はハツの手をしっかりおさえているのに力がいった。こんどはおう吐をくりかえしていた。ハツは、黒みをおびた、強い刺激臭のあるどろどろの液体を幾度も幾度も吐き続けた。
 ついにおそれていたことがやってきた。ハツは、前から血圧が高く、薬を飲みつづけていた。その思いがけない発作が、今おこったのだ。田代は、ハツの左手首をしっかりとにぎり続けたまま、他にするすべを知らなかった。脈博は、不規則で、強くなったり、弱まったりしている。しかし、それが田代にとっては唯一の生きている証拠であった。ハツのとじた目が、じっと田代の方を見るような動作をした。そうかと思うと、なにかおびえたように強い力で田代の手をはねのけようとする。
「ハツ、俺がここにいるぞ、死ぬんじゃない、死ぬんじゃない」
 田代は、そういいながら、懸命にハツの手をおさえていた。
 知らせはすぐに、あちこちにいった。親戚や学校、そして電話で本村の医者のところにも。しかし、この深い雪の中、歩いてやってくる医者は、二時間はかかるだろう。知らせをきいた村の人たちが、つぎつぎにやってきた。もちろん、村に残る老人や女たちだけである。女たちは、火をたいてお湯をわかし、やってくる人にお茶を出したり、ハツの足もとにいれる湯たんぽを作ったりして、かいがいしく働いた。田代は、じっとハツの手をにぎりしめたままだった。今にも、そのハツの脈が、とまるような気がした。女たちがあれこれ、かいがいしく働いている姿が、なにか夢の中のようにも思えてきた。この雪の中に、男が、ひとりで残されているような気がして、こんどはみじめになった。突然、ハツはもう死ぬかも知れないと思った。のどのおくから激しく、怒涛のように、こみあげてくるものがあった。
 医者が、八キロの雪道を、村の人や学校の先生に守られて歩いてきたのは、その日も、ようやく暮れようとするころであった。田代には、その時間が、気の遠くなるほどの長い時間に思えた。一通りの診察がおわったあと医者は、むつかしい表情でいった。
「やはり、心配していたことがおこった。前から血圧が高いので、注意するようにいっていたのだが、脳溢血で、今昏睡状態にある。おそらく、今日、明日の命だろう。すぐ子どもたちや親戚の人に連絡した方がよいでしょう」
 とうとう、おそれていたことが現実になった。田代は、医者のことばをききながら、ハツの顔から目を離さなかった。ハツは、じっと目をとじたまま、時々、手足をけいれんさせて、動かそうとする動作をくりかえした。全く意識はない。朝出るときは、
「きょうは、雪ほりだすけ、早めにきてくれねえかの」
と田代にたのんでいたハツであったのに、こんなことになるなら、もっと早く帰っておればよかった。
 この日の夜、花村校の職員は、田代の家にやってきた。医者や遠くの親戚との連絡、田代の二人の娘への電話など、いっさいを引きうけてくれた。医者の迎えにも、村の人といっしょに本村に出かけた。この親切が、田代には思いがけず嬉しかった。
 沢木も、その中のひとりだった。学校と田代の家との間に、いつのまにか、もっとも近いところに道ができていた。急な斜面を下り低い尾根をひとつこえたすぐ裏が、田代の家である。かんじきや長ぐつの足あとが、尾根をこえるところまで続いていた。低い尾根をこえると、まわりをうず高い雪にかこまれた田代のかや葺屋根がすぐ下にあった。入り口には、かやで編んだすだれがたてかけてあった。吹雪の日、これを玄関にたてると、雪の吹きこみを防げるのだ。入口には、長ぐつやワラぐつが雑然と並んでいた。戸をあけるとすぐ座敷になっていて、いろりには火が燃えていた。大勢の人があつまっていた。人々にかこまれた真中に、田代順三の妻が昏睡状態を続けていた。外からはいってきて、目がなれないせいだろうか、小さい裸電球がひとつついているだけで、まわりは暗く、はじめに中に敷かれたふとんが目についただけだった。沢木は田代に近づいて、東京で看護婦見習をしている娘さんに、電話連絡のついたことを小声でつげた。田代はうなずいて、礼をいった。沢木は、そこにとどまることがゆるされないように、すっとひきかえした。軽いめまいのようなものが沢木を襲った。人の死に、これほど身近に直面しようとすることは、何としても息苦しかった。しかも、たみ子の父のあと二度も続けて。
 学校に続く坂を登ってゆく途中、後ろをふりむくと、折から夕日が赤く燃えて、純白の山のかなたに枕もうとするところだった。裸の雑木林が、シルエットのように黒く、あざやかに浮き出て見えた。校舎も、雪の斜面もそして沢木自身も、赤くそまって、沢木はすくんだようにそこに立ちつくした。今、見てきた人の死の悲しみと、このみごとな雪景色とは、どうつながるのであろう。信じられないような美しい雪景色の中で、沢木は、雪国のもつ運命の力を感じでいた。田代の妻の死をいたむ、自然の偉大な葬送曲なのかも知れぬ。それでもなお、人々はこの雪国に懸命に生き続ける。沢木はそうおもった。
 美容師見習として上越の中心T市にいる田代の二番目の娘が、ジープで本村についたという電話がはいったのは、夜十二時すぎてからであった。待機していた花村校の三人の職員はすぐ迎えに出た。アノラックをつけ、手には懐中電燈をもって、本村に下った。沢木もその中にいた。
 外は、あたたかな南風が沢木らを包みこむように吹いていた。すきとおった夜空に、無数の星のまたたきが手にとるように見え、冷え冷えと美しかった。あたたかな南風が吹きこむと、山々をすっぽり覆っていた雪は、あちこちで亀裂が出て、ふもとにむかって、少しずつ動いてゆくのだ。起伏の多い細い雪道で、右手は山からおりてきた雪が、道を覆うようにせり出しているかと思えば、左手は深い崖で、消えはじめた雪が、大きな亀裂を作っているのが見えた。その広く深い雪の亀裂の底は、夜のやみの中に消えて見えなかった。
 時々、通る小さな部落も、すでに灯を消して、暗い夜のねむりにおちこんでいた。三人は、その静けさの中を、だまって歩き続けた。道の表面は凍りついて、長ぐつがすべると、きしんだような音をたてた。沢木は、今ひとりの人間の死に直面しながら、この地にまもなく春がやってくることを感じとった。どんなにこの冬が暗く、みじめであっても、春だけは確実に、ほのぼのとした期待をのせてやってくるのだ。沢木は、雪道をだまって歩きながら、しきりとそう思いつづけた。

 
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