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「雪残る村」 | 第一小説集『雪残る村』

雪残る村works

雪残る村 3

 図書館での仕事がおわると、地図をポケットにしのばせながら牧之のあとをまわった。上野東叡山、不忍池、芝増上寺、愛宕山、それは天明八年の牧之のあとの何分の一にすぎない。牧之はそれぞれの場所で風流な俳句をつくっている。今、私の眼にうつるのは波のようにおしよせてくる観光客であった。修学旅行の中学生、胸に赤いリボンをつけた団体客、そうした人たちが旗をもったバスのガイドさんにつれられて、入れかわりたちかわり私の前を通りすぎていった。軒をつらねて並ぶ土産品の店には人がむらがっている。どこでも自動車と人だけがむやみに多くて、無規律に右往左往しているように見える。この私もその波のような人の一滴にすぎないのだ。愛宕山に詣でた牧之は「数十万家を眼下に臨み、遠くは蒼海の天地とひとしく詠めさまざまなり」といっている。私はとうとうその場所を見つけられなかった。あるいは、もしその場所に立ったとしても、大きな建物にさえぎられて、街や海を見下すところまでいかないかも知れないと思った。数十万家を眼下にのぞんで、牧之の胸中に去来したものはいったいなんであろうか。軒を連ねて並ぶ江戸の町は、半年も雪に埋もれる郷里とちがって、この青年牧之の心を動かさないではおかなかったのだろう。その牧之がなぜすごすごと郷里にひきかえして、雪に埋もれたままちっぽけな本の出版にその長い生涯をかけたのか。私にはまだ牧之の気持はよくわからなかった。江戸におりさえすれば、「北越雪譜」ほどの本にあんなにも多大な労力と年月を費やす必要はなかったであろう。

 
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