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「雪残る村」 | 第一小説集『雪残る村』

雪残る村works

雪残る村 5

「北原さんの研究授業について、みなさんの率直な御意見をおきかせ下さい」
 S中学国語主任の小林先生がこういって口をきった。今日が、新学期からはじまった教育実習の最終日なのである。十人の実習生の顔にはみな明らかに疲労の色が浮かんでいた。今までの大学の講義とちがって、夕方おそくまで教材研究やら、反省会やらで、四週間の長い期間少しも体を休める時がなかった。その十人の実習生をはさむようにして、それをはるかにこえるS中学国語担当の先生たちが出席していた。会場の図書室には、両側の窓から燃えるようにあかい夕日がさしこんでいた。
「少し教師の話が多すぎたのではないですか。あれではまるで生徒は無視されてしまっていますよ」
 前にすわっていた三十年配の黒い縁の眼鏡をかけた先生が、私の方を見てこう切り出した。するとそれを待っていたかのように次々に私への批判がとび出して来た。
「あなたはいったい中学生の心理ということを考えたことがありますか、あんな授業をしていてはだれだって少しもついてきませんよ」
「私達という字の『達』という字はいつから当用漢字にはいったのでしょう」
 先生の中にはこういう皮肉をふくんだ発言をする人もいて、私をすっかりとまどわせてしまった。
 他の実習生は無言のままである。ちょうど裁判官の前にたった被告のように、だまったままであった。だまったままというより、次にどんな批判がとびでるかとおそれているようであった。
 私の授業に対する批判は、どうかするとまだ何も知らない者に対して鋭く詰問するような口調にさえなっていた。実習生を指導するよりも、この若い教師志願者をやりこめて、教師の型の中におしこめてやろうというようにさえ感じられた。
 実際、私の教育実習は失敗であった。生徒たちは少しもついてこようとしない。私よりも背の高い中学生が時にはおそろしい位になった。教師の誤字を指摘するにすばやい反面、そのノートにはちょっと見ただけで一頁から二つや三つの誤字を拾い出すことは、たやすいことであった。生徒の非をきびしく責めれば反抗し、甘くしていると増長する。ついこの間、中学を卒業したばかりだというのに、これほどにも今の中学生の気持がわからないのであろうか。それとも私の出た山村の小さな中学校と都会の真中のマンモス中学校とのちがいによるのであろうか。四十五人のこの中学生をすっかりもてあましてしまった。
 そしてそれは次第に中学の教師としての自信喪失におちいっていた。そうした私にこの先輩の先生たちの非難と侮蔑をこめた批判は、教師になろうとする自分に大きな疑問と懐疑を与えた。
 教師というものはもっと自由にいいたいことをいい、やりたいことをやれるものだと思っていた。それがどうだろう。指導要領につながりをもたねばならぬ、生徒の自主性を重んじ、教師の知識の注入におちいるな、当用漢字以外の漢字は使えない、正しい標準語、正しい筆順、それらは授業のあと指導の先生から何度もうけた注意であった。与えられた時間の中で、いかにその授業案に忠実に、指導要領にそって、そして生徒が生き生きと活動する授業になるか。教師は常にそのための研究を続けていかねばならないのだ。
 それに教育に対する国家の干渉が次第に強まっていることも心配される。道徳教育、学力テストと、いろいろな批判をうけながらも結局そうした国家の教育干渉は、現実の教育の中に入りこんできている。
 教育の名のもとに、眼に見えない糸が教師の体にすきまなく、はりめぐらされているのだと思った。そうした束縛の中でこれからの長い自分の生涯を刻んでいけるであろうか。
 自分の持っている生命の灯を更に赤々と燃やそうとするには、もっと違った道を歩まねばならぬ。私はそこまで考えた。もっとちがった道――東京で過した一週間の興奮と感激が夢のように思い出されてきた。地方大学のしかも教育学部に学んでいる私が、あの国会図書館や皆川教授との話ではまるで一かどの国文学者のようにふるまっていたではないか。それにしても、東京に出てなにを勉強しようとするつもりなのだ。日本の国文学なんて大上段にふりかぶってみても、今までいったい何を勉強してきたというのだ。あの東京での興奮は、ちょうど東京に修学旅行にいって、帰ってきたときの中学生の気持ではなかったか。あの巨大な建物と人波の中に酔っていたのではないか。俺の前に続いている道――それは一人の中学教師としての、細々とした道より他にないのだ。過去の教師がそうであったように、自らの個人を放棄した、暗さと悲しみにいろどられた道なのだ。
「俺先生になりたくないなあ」
 同じ科の村野光治に私はふともらした。
「君が先生にならないなんて、どうしてだい。この国語科の中で君ほど活発で、頭がきれるやつはいないじゃないか。君ほど教師に適している人はいないよ」
「教師というものが、俺にはたまらなく束縛されているような気がするのさ。教える機械のような……」 「そうかな。生き生きした眼にかこまれて、俺には少しもそんなことは思わなかった。教師として生涯を終ることに少しも後悔はないと思うよ」
「君はいいさ、そうして自分の進むべき道を力強く歩いていけるものな」
「それで君は、なんになるつもりだい。教育学部出なんてつぶしがきかないぞ」
「それがわからないんだ。とにかく先生にだけはなりたくないなあ」
「そんな夢みたいなこといって、来年はもう卒業なんだぜ」
 村野にそういわれて、私はだまってしまった。たしかに今の私にすれば夢みたいなことなのかも知れなかった。それきり私はもうそんなことばは、口に出さなかった。ただ、明日からまた大学に帰って、講義がきけるのだと思うと、なにか嬉しくてたまらなかった。いったい私が大学を離れている間に、どこまですすんでいるのであろう。
 六月にはいると、付属中学の研究会に参加するために、今春の卒業生がやってきた。教師になって二ケ月、みんなが真白いワイシャツと明るい色のネクタイをつけて、もうどこからみても先生になっていた。ひまをみてその先生二箇月の感想をきいてみると、
「学生のころが懐しいなあ、先生というのは実に雑務が多いのだ。生徒にわたす手帳にさえ、一人の生徒に、氏名、学年と組、住所、年齢、学校の住所、学校名、校長の氏名、それに校印と八つの印をおさなければならないのだ。それを五十名近くの生徒におしてみると、四百回の印を押すことになる。すべてが、こんなものさ。寝るときと食べるのより他に楽しみがないみたいだ。それにこのごろは、バレーの指導で夜暗くなってから下宿に帰ると、本もほとんど読まない」
 という。
「俺なんか、教科のほとんどが英語なので、なんのために国語科を出たのかわからない。その教材研究で手一杯さ。それに中学の先生になるには、大学のような国文学だの、国語学だのは全くといってよいほど役に立たない。図書館運営だの、視聴覚用具の管理だの、もっと実用的な知識がほしかった。結局中学の先生は一つの分野に深い知識をもっているより、あらゆる分野に浅くとも広い知識が必要だと思う」
「たしかにそうだね。昨年卒業論文を書くために、あんなに苦しんだのに、それが全く役に立たないんだ。少なくとも教育学部なんかに、あんな論文は不必要だね」
 こうした卒業生のことばを一つ一つうなずきながら、私はいままで、もったことのない大きな不安におそわれた。本も読まず、食べるのと寝るのが楽しみな生活、それはいったいほんとうなのだろうか。中学の先生には国文学などという深い知識はいらない。あらゆる分野に浅くとも広い知識が必要だとすれば、いったいどうすればいいのだろう。鈴木牧之研究が、いったい中学教師ということとどうつながるのであろう。私は自分の生涯にとって全くむだな、遠まわりをやっているのではあるまいか。
 その反面、服装こそいかにも先生然としてきちんとしていながら、大学という学問の場から、卒業と同時に激しい勢いで遠ざかりつつある卒業生に、反発してみた。来年の俺が、もし教師の道を歩いたにしても、こんな別人のようになって、後輩の前に姿をあらわしたくはないと思った。そう考えると大学の四年という重量感がひしひしと胸にせまって来るのを感じた。教師として赴任する学校は、どこか田園の真中にポツンと建っていて、そこには相談にのってくれる先生もいなければ、見ようとする本もない。そんな場所に投げだされて、ほんとうに学問の場から離れず、より高い知識を自分の人生の中に、蓄積していけるであろうか。
 その日、私は卒業生に別れてからも、そのまま寮に帰る気にはなれなかった。小さな焼鳥屋で、だまって一杯のコップ酒をのみほすと、酔いは意外に早くまわってきた。その足で夜の街路をゆっくり歩きはじめた。運動部の練習でくたくたに疲れた体で一杯の酒をひっかけて、泥のように眠る生活のことを思うと、中学の教師の生活が今の私とはあまりにもかけ離れているのだと思った。だいたいこの運動神経の鈍い、不きっちょな自分が、かもしかのようにすばやい中学生に、どんな運動部を指導できるというのだ。今まで少しずつ蓄積してきた人生が、そうした生活の中で、次第に破壊されてゆくような気がした。四年間教師になるために勉強しながら、年を追うごとに教師から遠ざかろうとしていく自分ではなかったか。教師にならないで何になろうとするのだ。私の考えはそこまで来ると永久に解答が出ないまま、同じところだけをぐるぐるとまわっていた。そしてそれは死ぬまで解答が出ないような気もした。夜の橋の手すりはおどろくほどつめたかった。ゆるやかに動く水面にネオンが光の屑のように映っているのを眺めながら、私の気持は複雑に回転しつづけていた。

 
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