本文へスキップ

「雪残る村」 | 第一小説集『雪残る村』

雪残る村works

雪残る村 6

 その間にも卒業論文だけは少しずつ進んでいた。否、そうした将来のことを考えるときの暗い気持ちから、論文を執筆している間は逃れることができた。
「北越雪譜」の原稿を版にするために、挫折を重ねながら、なお望みをすてない牧之の、あくことない執念におされることが度々であった。二十代のおわりころ、版にする意図を持った牧之は、中央の文人たちに依頼してその望みをとげようと思った。ところが、京伝は牧之の原稿をうけとってまもなく黄泉の客となった。そのあと馬琴に依頼したが、彼はその依頼を快く承知していながら、机上の煩慮を口実に少しも動こうとしない。馬琴に依頼して後、十年をすぎても「北越雪譜」はまだ版になる気配すらも見せなかった。いつのまにか六十才を迎えた牧之も、すっかりしびれを切らしていた。「予六十、翁六十三、互ノ齢長けぬる事故余儀なう出版催促」した牧之に馬琴はおこって「何方へとも別人に頼み呉との返事」が来た。六十才をこえた牧之の胸中には死への不安が増大していたころである。その時にあって「北越雪譜」出版計画はすっかり暗しょうに乗り上げてしまった。その時幸運なことに、京伝の弟京山が、その出版を申し出て来た。しかし、喜んでその京山にくらがえをするような牧之ではなかった。長い年月にわたる馬琴との交友を簡単に断つにはあまりにもいろいろなつながりがありすぎた。馬琴、京山という江戸戯作界の大御所にもてあそばれ、おどおどしている無骨な牧之。私はそれを書きながら、しばしば筆をとめて嘆息した。ここにも同じ越後人がいるではないか。たった一冊の本を版にしようとして、四十年も自分の懐にあたためつづけ、五度も書き直してもまだやめようとしない牛のような越後人。
 京山は牧之の馬琴に対する気がねがわかるのか、断わっても断わっても執拗に牧之にその決心を促した。それは迷いに迷っている牧之の心に、刃のように食い込んでくる。とうとう牧之は涙をのんで、馬琴を断って、京山にそのいっさいを依頼することにした。しかし、馬琴は、牧之が今まで辛苦して書きためた原稿の一枚すら返そうとしなかった。六十才をすぎた牧之が、再び青年のように出発しなければならなくなったのである。ようやく京山の手に移った「雪譜」の原稿は出版への道を歩み始めたが、その手紙のたびに京山は馬琴を、馬琴は京山を、お互い目の敵にして、激しく罵倒している。その二人の仲を和らげようとして、けなげにも牧之が両者に送ったのは「忍」の一字であった。江戸の火事に越後から送った一杯の水が何の役に立つかわからない。しかし、その火事の被害の一番大きかったのは、他ならぬこの越後の牧之ではなかったか。
 私はここでもまた人がよく、鈍重な越後人の一人を実感した。「たのまれれば、越後から米つきに来る」という越後人の一人が、ここにもいたのだと思った。
 天保七年五月、江戸の京山父子は、はるばる三国峠をこえて、塩沢にやってきた。京山は「北越雪譜」の校正刷りを持参した。牧之の青年時代からの夢は今ここにまさに実らんとしている。江戸の京山にとっても、この雪の書の出版は、兄京伝以来のはたされぬ夢であった。京山、牧之共に六十七才、おそらくすっかり白くなっていただろう頭髪をなぜながら、この二人の出会いがどんなであったか。私は執筆しながらこの二人の出会いのようすが、幻のように浮かびあがってくるのを感じた。はるばる江戸からの珍客を迎えた鈴木家のあわただしさ、初めて顔を合わせた江戸の戯作者と、越後の縮商人、そしてその二人の前におかれた墨の香新しい一冊の本。このまさに歴史的な邂逅は、二人の夢の結実のときでもあったのである。
 天保八年秋「北越雪譜」前篇がはじめて出版された。出版されるや否や、たちまち大評判になり、どこの貸本屋も、この本をおかないと客足がつかないというほどであった。
 その本を手にした年老いた牧之の喜びはどんなであったろう。そうした牧之の喜びとはうらはらに天保の飢饉はますます広がっていった。「北越雪譜」もそのために出版がおくれたのである。天保十三年、そうした社会のようすを心配しながら、牧之は七十三才の生涯を、その雪の中に埋めた。「北越雪譜」二篇は牧之の死後になって出版された。
「天保にはいると、今までの安定が破れ、飢饉が広まり、一揆や打こわしが続発した。こうした不安な政情の中で、晩年をすごした牧之には、その社会のようすがどんなにうつったであろう。牧之はかたくなに口を閉じたままである。否、私はそれをいうまい。そうした社会の動きとは全く無関係に、雪深い北越にあって、ひたすら雪国の不幸を訴え続けた。それで十分である。それだけでも江戸末期越後に生きた、牧之の生涯は残されるに十分である」
 牧之の晩年をこうして一気に書き終って、私は改めて自分の生涯というものを考えて見た。
 牧之が戯作者を志して、江戸に向かったとしたらどうであろう。十九歳の江戸出府のまま江戸に残っていたとしたら、どうであろう。東京で牧之のあとをまわりながら、すごすご故郷にひき返した牧之の気持がわからなかった。牧之のことだから、他の戯作者に見ならって、いくつかの戯作を書いたであろう。しかし、その戯作ははたして現在まで残っていたであろうか。一歩考えをすすめてみると、私はあの東京での考えと、ちがったものになりそうな気がした。おそらくその作品は多くの他の戯作者と同じように、文学史の谷間に埋もれ去って、決して後の人たちの目にはいらなかったであろう。当時馬琴と並んで、江戸の戯作界に大きな勢力をもっていた京山の存在すらも、一部の研究者以外知っている人はいないではないか。そして馬琴もまた、坪内逍遥の加えた攻撃があまりに激しすぎたせいか、決して研究されているとはいえない。大正十二年の大震災に、東大図書館に保存されていた、十数年におよぶ厖大な馬琴日記は、一瞬のうちに灰になってしまった。「北越雪譜」は江戸に出た牧之の手から決して生まれはしなかっただろう。もし生まれたとしても、今日の読者に、読むにたえるものにはなっていなかったであろう。
 こう考えると、文学なのか、非文学なのか判別のむずかしいこの一冊の書物は、牧之という一人の人間の執筆よりも、彼が生い立っているこの雪国の風土の産物なのだと思う。雪深い越後の地から動こうとせず、じっと雪と人間とを観測し続けてきた、一人の人間の記録なのだ。化政期の安泰に酔いしれている、江戸の戯作者の中から決して「北越雪譜」は生まれなかったであろう。このすでに何年か前に、没し去った孤独な越後人と対座しながら、私は一人の教師として、どこかさびしい雪深い地で生涯を果てようとする自分のことを考えた。東京へ向かうあのおびただしい人波とは別に、そのさびしい地で私が観察しなければならない何かがあるような気がした。それははっきりした形をなすにはいたらなくとも、この孤独な越後人と対座しているうちに、そんな気持がおこってくるのである。牧之がこの雪の中の孤独と対決しながら生きたように、私もそこから何かをつかまなければならないのだ。
 同じ科の宮野徹が、大学を卒業したら、東京に出て大学院に入ろうとしていることを知ったのは、夏休みがおわってからであった。
「教育学部にはいったからといって、だれもがみんな先生になる必要はないさ。はいれるかどうかわからないけど、もっと上へ進んで、今までやってきた平安朝の日記文学についてもっとくわしく研究してみるつもりだ。ちょうど父もゆるしてくれてね」
 私が用があって彼の下宿を訪ねたとき、こう話した。父が中学校長を勤め、恵まれた学生生活を送っている宮野の部屋に、本が多いのにおどろかされた。六十余巻全巻がそろっている日本古典文学大系、日本文学史、全講蜻蛉日記など、私にはとても手の出ない高価な専門書が、整然と本棚に並んでいるのを見ると、それだけで圧倒されてしまった。彼のことだから東京の大学院の豊富な資料と、優秀な教授について、こつこつと研究を続けて行くであろう。博士課程をおえて、どこかの大学の講師から助教授と続く学者生活をたどるであろう。その間にいくつかの論文を雑誌に発表して、学界の注目を集める。それに対して生涯、中学教師としてチョークの粉にまみれ、うんざりするほどの雑務に追われている自分の境遇はどうであろう。私はこの時、今まで感じなかった、手ひどい敗北感を持った。
「君も、学校の先生になりたくないようなことをいっていたが、どうするつもりだい」
「まだ迷っているさ」
「しかし、大学院へ行くつもりなら、もっと幅を広げることが大切なんじゃないか。牧之なんかあまりスケールが小さすぎるよ。まるでどこか隠居のもてあそびのようなところがあるじゃないか」
「もちろん、いろんな批判もあるさ。しかし俺は今までだれも省みなかった新しい道を開拓するつもりでいるんだ。ちょうど道のない山に新しい道を作るようにね」
「ほんとうに道がつくれるのかい。俺からみると、まるで迷路に入りこんでいるとしか思えないがね」
 宮野にいわれると、私はだまってうなずくより他はなかった。宮野の批判が的をいたものだったからである。どんな文学史の中に出たこともない、文学として研究すべきなのか、歴史として研究すべきなのかわからない牧之を、どれだけ深く知っていたところでなんになろう。国文学として、はたしてこんな名のない一文人の研究がなんになるというのか。それは牧之を研究しながら、たえず私の胸中に去来していた疑問だった。
 宮野に負けずに大学院に進むとしたら、そして学者としての生涯を送るとしたら、牧之を捨てなければならないと思った。これから牧之をつづけようとするには、わざわざ大学院に進む必要はない。大学院にいったところで、牧之についてどれだけ知っているわけでなく、どれだけの資料があるというわけではないからである。牧之を捨てて西鶴とか、近松とかというすでに評価のきまった人たちの研究をしなければならぬ。しかし、西鶴の文章語の一つ一つの典拠を中国や日本の古典から指摘されるほどにまでなった現在、これまでの何十年間におよぶ厖大な研究に眼を通して、又新しい独自な研究ができるであろうか。そのためには、気の遠くなるほどの年月を費さねばならぬと思った。私の今までやってきた研究自体、国文学の範囲から離れたものであった。新しい道を開くといいながら、ずんずんと国文学の分野から遠ざかってきたのであった。
 私は大学院にすすむことをあきらめた。もちろん私の研究心が失われたわけではない。ただ私のやっていることなら、わざわざ大学院にまで行かなくてもよいと思ったからである。

 
 >  >  >  >  > 6 >  >  >  > 10 > 11