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「雪残る村」 | 第一小説集『雪残る村』

雪残る村works

雪残る村 11

 明日はいよいよ赴任地へ出発するという前の晩、私の家では湧き上がるように起こる笑い声が絶えなかった。グレーの背広をつけ、紺とえんじの斜線のはいったネクタイをつけた私がその中心であった。そのグレーの背広は、ついさっき近くの衣料品店の主人が掘り出しものだと買ってきた質流れ品を安くゆずりうけたのである。今までほこりっぽい学生服ばかり着ていた私は何度も頭をかきながらその背広をきた。それにネクタイは家庭教師さきの主人からの贈りものである。ネクタイのむすび方をおよそ一時間もかかってようやくならったのである。まるでネクタイ中がしわだらけになってこれ以上しわのよる場所がないようなものをそれでもようやくつけることができた。
「結び方を忘れたら、輪にしておいてそのまま、頭からかぶるんだな」
 と父がいうと、また笑い声がおこった。
「りっぱな一人前の先生になったねか」
 母はみあげるようにいった。
「明日は壇の上にあがってあいさつするんだろう。少し練習してみれや」
「そうだな、やってみるか」
 私はちゃぶ台のわきにたった。
「ただいまあ、校長先生から御紹介にあずかりました北原でございます」
「それじゃ少していねいすぎるぞ。『御紹介いただいた』でいいんじゃないか」
「うん、そうだな、やりなおすか。ただいま校長先生から御紹介いただいた北原です。………ただいま、校長先生から御紹介いただいた北原です」
「選挙演説をやっているんじゃないぞ」
 すかさずやじがはいると、兄、弟、妹それに父母のいる家の中に一瞬どよめくような笑いがおこる。私は頭をかきながら、再び姿勢を正した。
「このたび、当深水中学の教師として、フショウ私が教壇に立つことになりました」
「フショウって何」妹がきく。
「少し古くさいよ。まるでおとなにむかって話しているようじゃないか。やり直し」
 あちこちからやじがはいって、私の新任のあいさつの練習はいっこうすすまなかった。そして「ただいまあ、校長先生から……」を何度も何度もくり返さねばならなかった。
 そのたびに笑いがおこった。外ではあたたかい風のためか、屋根の雪がしきりに音をたててなだれおちる音がきこえた。私はふと、これから赴任してゆく深水中学校もまだ深い雪に埋もれているだろうと思った。

 
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