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俳句「初日記」 | 悠久録(長岡新聞コラム)

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俳句「初日記」

 新しい年が明けた。新年にあたり、新しい日記帳で書き始めた人もいるだろう。今年も新しい日記帳を買った。といってもA4判大学ノートである。今年2018年と2019年分である。
 日記と言えば、筆者のそれは最初が高校生だったから書き続けて60余年の年月になる。その間一日も空白の日はない。入院していてベッドに横たわっていても口述でテープに取り、退院後文字化した。それだけ日記にはこだわりがある。果たしてこれがいつ書き納めの時になるかは誰も知らない。
 俳句では「初日記」という季語がある。この日記が書き終わる時がいつになるだろうか。「書き納む時いつか来る初日記」「初日記わが亡き後は紙屑に」新年会の句会作品である。このこだわりの日記もおそらくわが命終る後には、廃棄されるだろう。
 日本では日記に長い歴史がある。その最初が紀貫之の「土佐日記」と言ってよいだろう。平安時代に成立した日記文学のひとつで紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を、虚構を交えて綴ったもので、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」と書き始められている。仮名文字の初めとして女の立場で書いたといわれている。以来日本では様々な日記が書かれ、現在残されている。
 アメリカ生まれの日本文学者ドナルド・キーン氏は戦場に残された日本軍人の無名の戦士の日記を見て、日本文学研究をこころざしたという。日本人はどんな人も日記を書くことが好きなようだ。人の日記は命を持った人間の分身といえる。(ひこぜん)


※「悠久録」は長岡新聞の一面コラムです。

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