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苧引型兜城と牧野家 | 悠久録(長岡新聞コラム)

悠久録column

苧引型兜城と牧野家

 9月20日、21日とアオーレ長岡で長岡民話の会主催の長岡民話百物語が行われた。長岡市制百年を記念して始まった企画で今回は13回目。
 今年は長岡開府四百年ということで、牧野家にちなむ伝説を特集していた。初日には17代当主牧野忠昌氏から牧野家に伝わるお話があり、その後、高野フミさんが「苧引き型兜城と城内稲荷」を語って興味深かった。
 400年前城は今の蔵王にあり、城主は堀直寄公だった。城を移すということで、蔵王城から南、今の長岡駅あたりに移すことにして、家臣の奥村九郎左衛門に城の場所を決めるように命じた。
 ちょうど雪の朝で真っ白い雪原を白狐が飛び跳ねている。その口には長い麻の苧を咥えていた。その苧が雪の上に筋となって城の縄張りのように見えた。形が兜に似ている。それを直寄公に報告すると殿も喜んで兜形のお城の設計図ができた。こうして長岡城を「苧引型兜城」と呼ぶようになった。
 直寄公はその後、村上に移封になり、元和4(1615)年には初代藩主牧野忠成公が入府された。だが城の建築はそのまま進め、今の長岡駅付近に長岡城が完成した。
 忠成公は、上野大胡藩から長岡へ、戦国武将から近世大名への過渡期の牧野一族とその家臣団を導き、譜代大名の地位を確立した。越後長岡藩の立藩を果たして、以後250年に及ぶ長岡藩政の礎を築いた。  明治維新後、城は長岡駅の為取り壊されたが、当時の三の丸南隅、今のアオーレ入り口の右に白狐を祀って、城内稲荷を残した。今となっては唯一の長岡城の跡である。(ひこぜん)


※「悠久録」は長岡新聞の一面コラムです。

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